宿毛市

序文

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序文


現在の宿毛市は人口3万に及ぶ田園都市といわれているが、昭和29年の町村合併による市制施行前は、人ロ1万前後の草深い淋しいいなか町であった。土佐の西端に位置し、県庁のある高知市とは150キロも隔たっている宿毛の町は、台風でも来れば途中は水没して、年に何回も交通は完全にとだえて文字通りの陸の孤島と化すまことに不便な土地柄である。また鉄道もまだ1メートルもついておらず、汽車を一度でも見てから死にたいという老人も、山間部には居るという、山と海に包まれた淋しいいなか町である。

この不便ないなか町のかたすみから総理大臣をはじめ5人の大臣が、あとからあとからと引続いて出ているといっても、始めて聞く人はなかなか信じてくれない。しかし昭和23年10月に成立した第2次吉田内閣は総理、副総理両大臣を共に宿毛出身者で占めたいわゆる宿毛内閣であるし、また岩村通俊と通世、林有造と譲治両氏は共に父子2代がそれぞれ大臣であるのみならず、通俊、有造両氏は真実の兄弟である等、くわしく説明すると誰しもよく理解してくれる。政界だけでなく、そのほか実業界、宗教界、美術界、陸海軍人等 あらゆる分野で活躍し、日本的に名を成した人物が明治維新以来数十名に及んでいることはまことに郷土宿毛の誇りであり、全国的にもめずらしい存在だと考える。

このように多数の人材が出たのは、一に邑主安東家(伊賀家)が教育に極めて熱心で、講授館、文館、日新館等の学校を興して子弟の教育に専念したことが大きな理由だと思うが、なおその教授に人を得た事が最も大きな原因だと考える。中でも文館の教授酒井三治は松下村塾の吉田松陰と並び祢することの出来る人物で、松陰がその門下に木戸孝允、伊藤博文をあげれば、酒井は岩村通俊、高俊、林有造、大江卓、小野梓、竹内綱等、単に政治家だけでなく、大実業家、大学者、大教育家等をいくらでもあげることが出来る程、その門下からは多士済済の人物が出ている。

酒井三治は号を南嶺と称し、文政11年伊賀家の家臣の家に生れている。若いころ京都に出て和漢の学を修め、帰郷後は抜てきされて文館の教授となったが、自らも私塾望美楼を経営している。尊王、穣夷、佐幕、開国と世論は沸騰していたこの時代に、彼は極めて広い視野を持ち、念頭には党に「世界の中の日本人」ということをモットーにおいて門弟を教育している。彼はまた書が極めて巧みで世人からは、運筆の妙神に入る、とまでいわれたが、今に残っている彼の筆になる軸物のすべてに、「日本人酒井三治」の署名がみられるのにも彼の信念の程がうかがわれる。前述の門弟達がすべて国際的な視野に立ってよく物事を見極めての行動で国家に貢献しているのも、みな三治の及ぼした教育の影響であると考える。

わたしは今ここに明治100年の盛典を迎えるに当たり、わが国100年の歴史を飾る多数の人材を先輩に持つこの宿毛の住民であることに大きな誇りを感ずるものであ。この偉大な先人の歩んだ道とその功積を、広くかつ永遠に伝えるためと、われら及びわれらの子孫がこれを範として、更に発奮するよすがと致すためにこの書を刊行する次第である。

昭和43年10月1日

宿毛明治100年祭施行協賛会長 仁井 一

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