宿毛市

岩村 透

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岩村 透


平和な宿毛

4月9日故郷の宿毛へは11時についた。車夫(註中村から人力車で)はこれから帰りの客を曳いて戻るという。1日に12里の走行、ような生活なら糖尿病の起る気遣いはあるまい。と一寸車夫を羨ましく思う。林の伯父(註 林有造)の家に上る。庭の松の大木が今満開だ。幾本とない大枝を庭一ばいに突き出し、白い大きい花を開き出した具合は目醒しい。昼食の膳に上った蕨の味は、都会の馬鹿の知らぬ珍味だ。昼飯の後は伊賀男爵(註 従妹北子の家)の厄介になる。美文的厄介ではない。神戸からパンを取寄せる、珈琲を買入れる真剣の厄介である(註、当時すでに糖尿病を患っていたため、なるべく米食をさけていたので。宿毛にはまだパンは無かった。)

「清らかな明るい処」と言うのが宿毛の感じだ。町の入ロを流れる松田川の水ほど清澄な水を見た事がない。ここで取れる鮎は鮎の王だと言う。まだ季節に早いので食えぬのが残念だ。

伊賀邸の前に広々とした草原がある。旧馬場の跡であるそうな。この草原に数百本の桜が植付けてあって、今が花の真盛りだ。この花の下に土佐絵風に毛せんを敷き、持参の弁当を開いて、盛んに例の平均8升をやっている群集(註、土佐人は酒呑みで平均8升のむ由)が、あちらにも、こちらにも見える。どの群も三味線持参、所謂「飲めや歌え」とはこの光景のことであろう。天真欄漫、支那人の言う「人生一世、花開一時」の人間釈放の気分はこれである。原始的自然性の遠慮なく発露さるる具合の心地好さは、まるで万暦赤絵を観るに変らぬ。

日が没しても群集は去らない。新手は倍加絃歌の声愈々高まり、全く静まったのは1時頃であったろうか。(中略)

東福寺と言う寺の山にある先祖代々の墓地へ詣りに行く。長らく病気で、伯父伯母の非常な厄介になっている妹を訪ねる。祖父が旧家の跡や伯父の新田を見る。30年来耳にしていた様々のものを眼前に見て、愈々本望を遂げた。(下略)

以上は大正4年4月9日男爵岩村透の書いた宿毛滞在記の抜萃である。透が郷土宿毛へ寄せる心情の深さと、その巧みな文筆を知るよすがと、50年前の平和な宿毛の町の実態とを知るために、これを転載して岩村透小伝の書き出しとする。


少年時代の透

元東京美術学校教授文展審査員男爵岩村透は明治3年(1870)1月25日東京市小石川区金富町に生れた。父は宿毛十傑とうたわれた男爵岩村高俊で、維新の役に北陸征討軍先鋒総督軍艦として偉勲をたて、やがて新政府に登用され、宇都宮権参事、佐賀権令、愛媛県令、内務省大書記官兼戸籍課長、石川県令等を歴任すると共に、時には有栖川宮家々令に、また全権弁理大使大久保利通に随って台湾問題解決のため、遠く清国に使する等、功績すこぶる多く、明治29年男爵を授けられた英傑である。透はこの高俊と妻音瀬との長子として孤々の声を挙げた。

明治9年4月、学令に達した透は福沢諭吉の経営する慶応義塾幼稚舎に入学した。この学校は初年級から正課として英語を課し、また図画、音楽等、情操教育にも力を入れ、当時の読み書きそろばんのみに重点を置いた一般公立小学校とは非常に趣を異にしていた。このことが後年、我が国美術界に雄飛し、また英語学者としても他の追随を許さなかった透を育てた1つの大きな原因になったであろうと、人々からいわれている。

明治17年3月この幼稚舎を卒業と共に、同人舎に入学、つづいて翌18年、東京英和学校(現在青山学院大学)に転じている。爾後3ケ年間、厳格なキリスト教の戒律の下、徹底した語学の研修に励み、彼の英語は一段と進歩し、将来の雄飛への基礎はここで修得された。


アメリカへ

明治21年4月大志を懐いて透はアメリカヘ旅立った。彼は幼稚舎入学以来すでに12年を経過し、18才の多情多感な青年に成長していた。西洋美術へのあこがれが彼を国内に留まらしめなかったのである。殊に英和学校在学中特に指導していただいた恩師、スペンサー教授がアメリカに帰国される事になったので、師をしたって行を共にし、大平洋を渡ることになった。そうして彼の地に着くとスペンサー教授の紹介で直ちにニューヨーク州キングストン市のワイオミングセミナー美術科に入学し、彼の本格的な美術研究が始まった。キングストン市の郊外で、三脚や絵具箱を携えた日本人岩村透の姿を、休日毎に見かけたと、当時の村人の語り草となっている。

明治23年6月ワイオミングセミナーを目出度く卒業した彼は、ニューヨーク市に移り有名なナショナルアカデミーの美術科に籍を置いた。


欧州へ

アメリカは芸術の国ではない。新開地で芸術的な伝統はほとんど見る事のできない国である。ニューヨークでの彼は研究が進むにつれて、ローマへ、パリへとヨーロッパ大陸への憧れが生じ、逆に翌24年9月滞米3年余りで大西洋を渡った。船は先ずロンドンに着き、この地でしばらく滞在した後、ベルギーを経て、美術の都パリーに着いたのは、年もおしせまった12月の事であった。

パリーに留まること半年、アカデミージュリアンに籍を置いた。パリーでの学生生活が余程気に入ったと見え、透は次のように述べている。

ロンドンにもニューヨークにも、ローマにも、それは立派な美術学校はある。立派な美術家もたくさん居る。しかし、美術家が他の人間社会と、別に団体を結んで、他人のことには一切無頓着に、朝から晩まで美術のことばかり見、聞き、話して一生涯を暮せる所は、パリー以外には世界の何処にも無い。全くの美術の都だ。」

アカデミージュリアンでの勉強でいよいよ美術の奥義をきわめた透は、翌年6月イタリアに足を延ばし、古代ローマの芸術の粋に接した。そうしてその年の12月、渡米以来5年の外遊を終えて、透22才の暮に帰国したのである。この外遊によって透の生涯の進路が決定すると共に、世界の美術家と互いに知己となったことは、まことに重大な意義を持つもので、後年明治画壇を代表した巨匠黒田清輝等ともこのパリーでの学友であり、その後一生涯を通じてかわらぬ交わりを続けている。


帰国

東京へ官立の美術学校が創設されたのは、明治22年で、当時徹はまだアメリカで学んでいる青年学徒であった。しかしこの美術学校も我が国古来の美術、すなわち日本画研究を主体とした学校で、明治以来輪入された西洋美術は、全くらち外に置かれていた。したがって洋画研究は明治美術会という民聞の同志的団体が只1つの研究団体で、明治25年には小規模ながら私立の美術学校を経営して後進の指導に当っていたものである。こうした洋画界の黎明期が、帰国した透にとっては絶好の活躍場所となった。

透は直ちに明治美術会に入会したが、やがて評議員に推され、会の幹部として活躍するだけでなく、附属の美術学校の講師として、西洋美術史の講義をも受け持つことになった。26年にはパリーで親交のあった黒田清輝も帰国したので、2人は手をたずさえて会の中心人物となり活躍したが、この時代に2人の進路がはっきりと定まったように思われる。すなわち黒田は画筆1本にいわゆる洋画家の道をたどり、やがて明治時代の国宝的な画家となったのに対し、透は画筆を捨てて美術史家、美術評論家として、言論と文筆に生きるようになった。せっかく長年にわたり研さんした画筆に遠ざかったことを惜しむ世人も多いが、しかし画筆を持たせば十分にその技を発揮出来る腕を持つ評論家、美術学者は皆無であり、そういう点に着目した透はまことに秀れていたというわけで、これが後年文展審査員にえらばれるようになった大きな原因だ思われる。これについて彼の親友であり、我が国画壇の巨匠、和田英作氏は次の様に述べている。

「岩村君は初め画家になる考えで長く米国に留学し、次いでフランスにわたってブグロオの弟子となり、アカデミージュリアンに通って専念画技を学んだ。ところで同君は技術家であったが、また一方においては、学者で研究家で、なお語学に熟達しておられるところから、美術に関する書籍という書籍は、英、仏、独のもの殆んどすべてを読破しを言ってよい程であった。かくて長年の留学を終えて帰朝した後の同君は不思議なことに、せっかく学んだ絵画の道を捨て去って、ほとんど絵画を描かれをとが無かったらしい(下略)」とにかく当時実技をもたない批評家のみの中にあって、描く腕を持ち、画家の内容のすべてを体験している透の美術評論家としての出発が、この時代に始まり、やがて我が国美術界の至宝的存在に成長したものである。


芸術学校教授

東京美術学校に洋画科が設けられたのは、明治29年の春である。越えて32年、透は招かれてその教官となった。時に年29才。

爾来、大正5年3月退職まで、17年の長い間、美術界の最高学府において美学の伸展につくした功績はまことに大きいものがある。また34年からは、兼ねて語学の教授をも命ぜられたが、透の美術史講義と英語学の授業は美術学校での生徒の人気の焦点で、この講義を聞くために入学したという学生まであったという数々の逸話が未だに学校に残っている。なお、これより先帰朝後、透は母校青山学院や、郵便電信学校、また後年には慶応義塾大学等で美術や英語の教師をしているが美術の総本山ともいわれる美術学校での教育はまったく腕の振るいがいのある仕事で、おそらく透も全霊を傾注してこれに当ったと思われる。ことにその後、在任中3回も渡欧しては研究を重ねてうん蓄を深めては教壇に立った透の努力がかく生徒を引きつけたものであり、西洋美術史に限っては透の先にも後にもこれに代る人物は無いとさえいわれている。


文展審査員

わが国の美術界は明治初年から、年々いろいろの展覧会を催して、美術の発展に貢献していたが、それらはすべていろいろの民間団体の主催するもので、規模も小さく又全国的に統一された権威あるものでも無かった。政府はこの必要を感じて明治40年、文部省主催をもって、画期的な大行事として、文部省美術展覧会-所謂「文展」を法律によって実施し、わが国美術の振興を図ることになった。そうして今日に至るまで年を重ねて年々隆盛におもむいている。この大展覧会実施に当り、透は選ばれて、その審査員となったことは、本人の名誉は申すまでもなく、郷土の誇りとして永久に伝えなければならない。審査員とはその字の通り、国内の大家が出品した作品を審査する役で、名実ともに国家最高の美術家でなければならない。第2部(洋画)の審査員の当時の名簿に、前記黒田清輝、和田英作或は中村不折等国宝的存在の人々と共に、わが岩村透が堂々と名前を連ねている。

即ち郷土の先輩岩村透もわが国最高の国宝的人物であることをこれが十二分に立証している。しかも引続き大正2年まで、6年の長きにわたり、連続4回この大任を全うし、初期文展の育成を図り、わが国美術の発展に尽した功績はまことに甚大といわなければならない。


晩年の透

透の晩年は、いよいよ冴えた論評による文筆と講演に明け暮れている。しかしながらすでに漫性化した持病糖尿病との闘いの中での活躍は、心身ともに疲れ果てて苦しみの毎日であり、全力を傾注しての闘いであった。

彼は病の中で大正4年11月には著書「美術と社会」を発刊したが大正2年からは美術週報の編集作業に当り、同じく芸能雑稿第2集も同時に発行している。大正4年より5年にかけては、建築画報新公論、太陽、日本及び日本人等各種雑誌から毎月のように求められて稿をおくり、又或は大阪に、東京にと招かれて美術講演におもむいている。こうした大活動がかえって彼の病気を悪化し、大正6年にはいるとついにいっさいの世のわずらわしさをさけて、神奈川県三崎の別邸に引きこもり、ひたすら静養に専念したが、8月17日ついにこの地で逝去した。時に年47才。まことに惜しみても余りある痛恨事である。

法名は大透院殿玄心涯誠大居士。

透、逝いてすでに50年、今静かに三崎本瑞寺の墓地に眠っている。

 

岩村 透

岩村 透

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