宿毛市

伊賀 氏広

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伊賀 氏広


行機作成の動機

明治42年秋の陸軍大演習は、茨木県を中心に関東平野一帯において盛大に行なわれた。大演習とは陸軍の二個師団以上の兵力が、紅白の両軍を編成して行なわれる陸軍最大の大訓練である。特にこの大演翌は明治天皇の統率を仰ぎ、将兵の心は皆実戦さながらに湧き立っていた。日露の後に大勝してからまだわずか2、3年しか経ていないこのころの大演習は士気いやが上にもたかぶり、実戦さながらの壮烈な模擬戦を展開したものである。

伊賀氏広は明治41年、一年志願兵として近衛騎兵第1隊に入隊、軍隊生活をつつがなく終えた彼はこの時若き見習士官として応召し、この大演習に参加していた。演習第1日の払暁彼は将校斥候の大命を受け敵状偵察の為、下士官、兵卒7名を引率して馬上の人となり、那河川左岸を尾根伝いに北進中、対岸を北進する味方騎兵中隊の遥か前方に南下中の敵の大部隊を発見して驚いた。まことに寸刻を争う事態である。このまま味方騎兵部隊を北上せしめたら、正に捕捉繊滅されることは火を見るより明らかである。飛んで火に入る夏の虫とはこの事を云った言葉としか考えられぬ彼は、直ちに下士官を伝騎として味方騎兵中隊へ敵の大部隊発見の報告に走らした。山又山をうねりくねりとまっしぐらに走り去る伝騎の後姿を見送りながら、何とかして間に合えばと、彼は胸を焼くような焦燥を如何ともすることが出来なかった。

丁度その折彼の足元から急に1羽の鳥が飛び立った。暁天に美しい翼を輝かせながら友軍の方向へ向って一直線に矢のように飛び去って行く鳥の姿に目を止め、彼の頭に霊感のようにひらめくものがあった。

「そうだ、羽根さえあればまっすぐに飛んで行けれる。この寸刻を争う報告がすぐに間に合うのだ。そうだ飛行機だ。空飛ぶ飛行機さえあれば日露戦争にもあれ程の苦戦はしなかったはずだ。よし除隊になったら、どんな困難も克服して自分は飛行機をつくってみせる。これこそ自分に与えられた天の使命だ。」彼は見えかくれに走り去る伝騎を目で追い乍ら強く心に決する所があった。

大演習が終るとやがて彼は召集を解除されたが、あの時胸に焼けついた感激は消えるべくも無かった。そうして
「やるぞ。必らず飛行機をつくってみせる。日本の為に。世界無比の陸海軍をより強大にするために、自分はすべてを投げ打って飛行機をつくってみせる。日本の空を、世界の空を飛んで見せる。」彼はそう考え続けて家に帰った。そうして彼の研究は、その日から始まつたのである。


彼の生立ち

明治19年9月18日男爵正五位伊賀氏広は高知市に生れている。伊賀家はもと稲葉姓を名乗り美濃国北方城主をしていたが、後に伊賀氏更に安東氏を名乗っている。山内一豊が関ケ原役後土佐藩主として入国の際、安東可氏は之に従って入国した。そうして家老職を命ぜられ6,200石を賜って、宿毛に住みついたものである。可氏の母通は藩主一豊の姉に当り、その後も安東家と山内家との間には、たびたび婚姻関係を結び、極めて深い血の連がりを結んで、可氏以来12代氏成(伊賀陽太郎)に及んでいる。伊賀氏広は12代氏成の養嗣子として山内家より伊賀家に入ったもので、鎌倉附属小学校より明治28年4月8才の時宿毛尋常高等小学校に転入学、尋常科を卒えた後高等科2年の明治31年には再び東京に転住して東京高等師範学校附属小学校に転入学し、同校高等科卒業。引き続き附属中学校に入学し、明治37年3月同校を卒業している。その後東京美術学校に入学したが、40年春中途退学して一年志願兵として兵役に服し、陸軍騎兵見習士官となり、除隊したものである。


伊賀式双葉空中飛行機の創案

当時東京都文京区宮下町に住んでいた彼は、除隊と共に不眠不休で自宅の勉強室にとじこもり研究に取りかかった。先に述べたように、伊賀家は藩政時代は土佐山内家の家老職として、6,200石(後には7,000石)を領し、財政的には極めて有福であり、加えて先代陽太郎氏の維新当時の功績により、男爵に叙せられ、彼は当時既に男爵を襲名して衣食には何等不自由しない恵まれた家庭であった。このことも彼の飛行機研究に更に拍車をかけた原因にもなったと考える。

彼は化学力学、機械学等、飛行に必要なあらゆる文献をあさった。然しこと飛行機に関してはいまだ国内には1冊の参考書も出ていないので、遠くイギリスやアメリカ等の洋書を求めて一心不乱に勉強した。そうしてその研究の結果を模型作製によって実地に飛行さすことを試みた。

明治43年3月には既に双葉飛行機の模型が仕上っている事で如何に彼が非凡の努力を続けたかがうかがわれる。この模型は「浮揚面を傾斜せしめて進行し、翼の裏面に風圧を受けて空中に浮揚すべき構造」と云う凧式飛行機で、彼は東京帝国大学教授田中舘橘愛博士等のすすめにより特許局に専売特許の申請を出した。ゴム動力によるこの模型飛行機は審査官の前でまことにあざやかな飛行を続け、理論と実際が完全に一致して同年9月、専売特許第18663号「伊賀式双葉空中飛行機」の認可を得ている。


伊賀式滑空機作成

このことを当時の全国の新聞は重大ニュースとしてトップ記事に大きく取り扱かい、互に競い合って連日報道したものである。彼は一躍有名人となり、彼の周囲には航空開発に志す人々が陸続として訪れるようになった。宮下町の自宅には、研究室や作業場も新たに建設され、これらの人々と共に互に共同して研究に精出したものである。我が国航空界の草分け時代の権威者として、永く史書にその名をとどめている日野熊蔵、徳永熊雄、徳川好敏、山田猪三郎、奈良原三次、磯部鉄吉、中島知久平、榊原郁三、都築鉄三郎、田中順吉、大田裕雄等は皆彼のよき相淡相手であり、又よき助手であった。彼等は先に特許を得た伊賀式双葉飛行機を完成し、これによって空中を飛行することを最終目的とした。即ち製作と操従の両方を完全にマスターしようとしたものである。その為に次のような3段階によって完成する計画をたてた。すなわち

  1. 滑空機を製作して空中を飛行する。
  2. 伊賀式飛行機に類似した外国飛行機を試作して飛行する。
  3. 専売特許伊賀式双葉飛行機を完成し、空中を飛行して目的を達成する。

の3段階であった。そうして直ちに第1の段階の滑空機(グライダー)の製造に取りかかった。滑空機は即ち動力を持たない飛行機で、第2次大戦当時は若者たちの飛行技術訓練の為国を挙げて、これに熱中したが、この当時は勿論唯の1台も日本には無かったものである。工夫に工夫を重ね幾度かの試行錯誤を重ねて44年3月ついにその完成を見た。

そうして都下板橋の競馬場を借り受けて、乗用自動車の索引により彼自らが操従桿を握って機上の人となって、それの飛行が試みられた。数万の見物人の中で行なわれたこの実験も遂に思わぬ事故で挫折してしまった。即ち競馬場の地面の凹凸があまりに多かった為、最初の索引の際後部車輪を破砕して地上滑走が出来なくなり、遂に不成功に終ったものである。滑空機はついに飛ばず、彼は切歯扼腕したが万事休した。


伊賀式「舞鶴号」飛行機作成

彼は滑空機の故障部分の取り変えによる再実験を打ち切って直ちに第二の段階に突進した。如何に財力があるとはいえ、ここ数年来研究費材料費その他万般の費用の一切を自弁して、ひたすら飛行機の発展に専念する彼の努力と信念に私はまったく敬服するものである。当時はこうした研究には国の保護も一切無く、したがって補助金、助成金、交付金等夢にもいただけなかった時代である。しかも民間にも、まだ後援団体等全然組織されてない時代のことであり、如何に財力があるとは云へ、資金面で次第に圧迫を感じ出してきた、 外国飛行機試作については、伊賀式飛行機にもっとも類似したフランスのブレリオ式飛行機の模作を行うことに決定した。幸にして雑誌「科学世界」の発行主大阪柳原喜兵衛氏が、彼の国家的大事業に敬服して財政面の後援の申し出があり、資金面に苦労していた彼は喜こんでこの誠意を受け、勇躍研究の歩を進めた。はるばるフランスより取り寄せた設計書や型録と首っぴきで、またまた不眠不休の製作が始まった。

資材の蒐集には随分と苦労したが、機体はすべて作業場で作製組立を行ない、全幅8米、全長8米、重量200キログラムの機体を完成した。但し発動機だけは大阪の島津製作所に依頼し、アンザニー3気筒、25馬力型をつくってもらったが、この発動機も国産では正に第1号であったと聞く。彼はこの飛行機に「伊賀式舞鶴号」と命名し、44年12月田中舘橘愛博士始め航空界最高権威者の臨席の下で試験飛行を行うことになった。

今度こそと彼は再び機上の人となったが、シリンダーの1本がどうしたことか、どうしても動かない。したがって全馬力が出ないため滑走だけで、機体はどうしても浮揚してくれない。機上の彼は懸命に上げ舵を握って上昇を試みたが、その内練兵場借上時間が過ぎてついに地上滑走だけで終ってしまった。自作しなかった発動機の故障で飛び立てなかった彼は天を仰いで嘆息した。


伊賀式飛行機ついに成らず

彼は発動機を再調整して再実験の志に燃えたが、まわりの事情がこれをどうしても許さなかった。彼が飛行機開発の為に使用した莫大な入費は、経済面でいきつまりを生じ、これ以上の研究は一家、親類すべてがゆるさなかった。彼は涙をのんでいさぎよく飛行機研究の総てを中止したのである。

したがって彼が最終目標とした伊賀式双葉飛行機の製作は、まったく手をつけずに終ってしまった。成功、不成功はともかくとして、あらゆる困難と斗い、国産1号機舞鶴号を作製して我国航空界に先鞭をつけた彼こそは、正に青史を飾る偉大な存在と云わなければならない。

 昭和41年2月25日彼の訃が伝わった時東都の新聞は一ように彼の訃を取り上げ、
    空の男爵七十九才で逝く
     国産第一号機を製作。

と云う5段抜き大活字の見出しで、彼の一生を精しく述べている事でも、彼が日本が必要とした研究の先駆者であったことを物語るものである。


日本飛行協会をつくる

彼は又国民の航空に対する関心を深める必要を痛感して、同志と相はかって、日本航空協会の創立を計画した。明治43年彼は仮事務所を自宅に置き、東奔西走啓蒙運動と会員の獲得に努力したが、我が国の上空をまだ1台の飛行機も飛んでいない時代であり、彼の計画遂行は非常に困難を極めた。有名人を訪問して門前払いを食ったり、或は行動の中止方をすすめられたり、ずいぶんと苦労したが、彼のたゆまぬ努力はついにむくいられて、会長、副会長に当時の一流人物大隈重信伯爵、阪谷芳郎男爵の就任にこぎつけると、会員は急激に増加し、事務所は東京の中心日比谷にまで進出するようになった。日本飛行機協会は後に帝国飛行協会と合併して、現在の日本航空協会となったもので、彼はまた我が国航空団体の創設者と云うことが出来のである。


郷土の開発につとめた

伊賀式飛行機「舞鶴号」に失敗した彼は大正2年春、東京を離れて郷里宿毛に引き上げ、昭和5年夏まで満16年間宿毛の一町民として、誰とでも親しく交わっている。特に町の消防組頭(今の消防団長)となって、組の整服をまとってどんな火事場へも真先に出勤して、消火につとめたことは、今に市民の語り草となっている。

宿毛町の消防団は彼の時代に、急激に近代化された。機械に精しい彼は25馬力のガソリンポンプを購入し、サイレンも備えつけて、今まで手押ポンプだけしか見たことのない町民の耳目を驚かせた。宿毛消防団のめざましい発展と彼の活躍は認められて、大日本消防協会高知県代議員、ついで副支部長を兼任することになったのは昭和4年9月のことである。

彼はまた林有造を社長とし、藤田昌世を技師長とした予土水産株式会社の創立の世話をし、宿毛を真円真珠養殖企業の世界最初の成功地とした。


その後の彼

昭和5年の夏、彼は宿毛を離れて再ぴ東京に居を移した。そうして昭和9年日本ヂイーゼル株式会社創設委員として設立に努力し設立後は営業部長の椅子に座った。彼はドイツのクルップュンカースと提携して、我が国の自動車開発につとめ大いに敏腕を振った。

次いで17年安達工業事務所長、株式会社竹中工具製作所相談役等に就任したが、昭和20年8月終戦と同時に退職、爾後家庭にあって、仏像の彫刻に専念し、静かな余生を送りながら、戦歿者の霊を慰めることに専念した。

そうして昭和41年2月25日波乱にとんだ彼の生涯に終りをつげ静かな永遠の眠についた。享年79才。墓は宿毛東福寺山にある

伊賀 氏広 伊賀式試験風行滑空機
伊賀氏広 伊賀式試験風行滑空機
伊賀式飛行機「舞鶴号」  
伊賀式飛行機「舞鶴号」  
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TEL:0880-63-5496 FAX:0880-63-2618
E-mail:rekishi@city.sukumo.lg.jp
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