一条家は京都五摂政家の名門でしたが、教房の時に応仁の乱によって焼け野原になった京都をあとにして、荘園としてもっていた土佐中村にやってきました。
この教房の第二子で中村で生れた房家を初代として、房冬、房基、兼定、内政の五代を、一般に土佐一条氏と呼んでいます。
なかでも房家の時代はいわゆる公卿大名として戦国の世に臨み、もっとも栄えた時期でした。
房家の墓がある宿毛市平田町にある藤林寺は、彼が菩提寺として建てたものです。
一条房家の墓
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一条家は京都五摂政家の名門でしたが、教房の時に応仁の乱によって焼け野原になった京都をあとにして、荘園としてもっていた土佐中村にやってきました。
この教房の第二子で中村で生れた房家を初代として、房冬、房基、兼定、内政の五代を、一般に土佐一条氏と呼んでいます。
なかでも房家の時代はいわゆる公卿大名として戦国の世に臨み、もっとも栄えた時期でした。
房家の墓がある宿毛市平田町にある藤林寺は、彼が菩提寺として建てたものです。