宿毛市立宿毛歴史館

小野 義真

小野 義真小野 義真


小野義真は通称を強一郎といい、天保10年4月8日宿毛に生れた。小野家は代々邑主安東家に仕え大庄屋の職をつとめている。岩村通俊、高俊や林有造の母嘉乃は義真の叔母であるから彼とは従兄弟の関係である。

明治維新後、新政府に出仕して大蔵少丞となり、ついで土木頭となって大阪港の築港や淀川の改修等にその敏腕を振った。この大阪での数年の彼の生活が彼の一生を大きく転換させた。それは官吏として生きるよりも、身を転じて実業界に雄飛することが、彼の性分にも合うし、また男の働きがいの場所だと考えたことである。そこで彼は明治7年1月に願を出して官界から去り、その後一切官界に足を踏み入れていない。したがって在官わずかに4年足らずであるが、彼に従五位が下っていることをみても、土木頭としての彼の活躍が人並でなかったことがうかがわれる。

退官後は財閥三菱の顧問として岩崎弥太郎の補佐をし、三菱のあらゆる枢機に相談相手となっている。弥太郎は特に彼を信頼し、重大事業はすべて彼の意見を聞いた上でなければ、決して手をつけなかったという。したがって三菱での彼の発案した事業はたくさんあるが、中でも有名なのは小岩井農場の建設がある。岩手県盛岡市の郊外に2,600余町歩の面積を持つこの農場は日本一の大農場といわれ、現在は畜産だけでなく、観光に、或いはいこいの場所として岩手県随一の名勝地となり、毎年数十万の訪問者でにぎわっている。この農場は彼が岩崎、井上両氏にはかって設立して経営したもので、その名は小野の、岩崎の、井上のと3人のそれぞれの頭文字を組合せて命名したものといわれている。当時は農家で1、2頭のみ飼育している家庭畜産でしかなかったこの時代に、広茫たる原野に数千の南部馬を放牧して、わが国馬匹の改善と奨励につとめた彼の規模の雄大さに驚くものである。

明治10年西南戦争が起こると、彼は弥太郎を説いて汽船を購入させ、東京より戦場への兵器弾薬食糧の輸送を全部一手に引受けさせたが、それによってばく大な利益を得て、三菱会社の基礎はこの時に初めて定まったといわれている。したがって大三菱をつくった恩人は小野義真その人であるといってよい。

明治5年東京横浜間に開通した汽車はその後西へ西へと歩を延ばしてはいるものの、東へは一歩も延びず、単に東海道線の建設に明けくれているのが、当時の政府の鉄道についての能力であった。このままでは全国に鉄道の普及するには何百年かかっても出来ない事に目をつけ、私設鉄道の設立を考え出したのが岩倉具視であった。かねて小野の非凡の材であることを見抜いていた岩倉は、日本鉄道株式会社設立主任に彼を抜てきした。この会社は東京、青森間に私設鉄道を建設する目的で設立される会社であるが、当時まだ鉄道に対する一般の認識は極めて薄く、これの設立には困難を極めたが、義真は寝食を忘れて日夜奔走し、或いは政府を説いて保護を願い、或いは民間資本家を訪れて出資を乞う等、苦心惨憺百方手をつくして、ついに資本金1,000万円(現在の数千億円)の大会社を設立することに成功した。

日本鉄道株式会社が設立されると、彼は推されて社長に就任、さっそく東北本線上野、青森間の鉄道建設工事を開始した。東北本線は東海道線、山陽線と共に本州を縦断するわが国3大幹線の1つで、その重要性はいまさらいうまでもないことである。工事上幾多の難関はあったが、すべてを克服し、やがて東北線は開通して、わが国陸上交通に新時代を画するようになった。彼は初代社長として就任以来引き続き21年間社長の椅子に座ったが、その間社運は隆々としてますます上り、皆一様に彼の敏腕に敬服した。後、政府は国策によって私設鉄道を買収して、わが国の鉄道をすべて国有化することになり、その第一に重要幹線東北本線の買収を開始した。彼は国策のよろしいことを認めて喜こんでこれに応じたが、上野、青森間750キロのこの鉄道を自分の手でつくり、自分の手で育てて来たこの20余年間をふりかえって定めし感無量であったことであろう。その後は彼は自適の生活を楽しんだが、明治38年5月9日67才で歿した。

義真は人となり、快活でよく酒をたしなんだ。書道と俳句にも巧みで今でも彼の筆になるものを時々見掛けるものである。また浄瑠璃を好んで日常の談話の時でも、時々口調まで義太夫の文句を交えて人々を笑わすことが多かったといわれる。

彼は平素から立居振舞が極めて厳格で、朝夕親しく交わっている人でさえも、彼が膝をくずしたり、横になったりしていたことを見たことが無かったということである。彼が逝去の3日前でも薬を飲む時は必ず正座して、衣紋を整えてからでなければ口に入れなかったという。彼は平素極めて質素倹約であったことも有名である。日本有数の大会社の社長として、また数百万の富にめぐまれている人でありながら、日常使用の道具類はまことに粗末なものばかりであったということである。

 俳句は老鼡堂永機翁を師として、号を桃斉といった。

    長 き 夜 や 偕 に 楽 し む 酒 の 味

    朝 顔 の 蕾 か ぞ へ て 宵 寝 か な

小野義真 小野義真書 小野義真銅像
小野義真 小野義真書 小野義真銅像
(昭和18年応召)

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