宿毛市立宿毛歴史館

大江 卓

大江 卓大江 卓


大 江卓は、明治時代の政治家として或は実業家として、相当な活躍をした人であるが、彼の名が今日なおかがやいているのは、彼が我が国の近代的ヒューマニズム の先駆者であったという点である。すなわち、明治4年に賤称廃止に力をつくし、更に奴隷船マリア・ルーズ号事件で清国の労働者232名を救い、晩年は僧籍 に入ってもっぱら部落問題ととりくみ、部落解放のためにその一身をささげたことである。

その間、維新の志士としてまた自由民権の闘士として、或は政治家、財界人として思う存分の活躍をし、波乱に富んだ生涯 を終えたのであるが、今ここにその偉大な彼の一生をふりかえってみることにする。

大 江卓は幼名を秀馬といい、弘化4年9月25日、土佐の西南端、柏島に生れた。父は大江弘、母は久子といい、宿毛の邑主安東家の家臣で、柏島勤務を命ぜられ ていた時に生まれたのである。やがて父は宿毛に帰任し、彼は12才で、安東家の嫡子陽太郎のお伽役となった。元服して名を治一郎と改め、日新館に入り、学 問、武術を学んだ。

慶応3年9月、砲術研究のため岩村通俊、高俊兄弟と共に、長崎にわたり、ここで海援隊の中島信行、石田栄吉、長崎商会 の岩崎弥太郎等と交わった。

大 江はその後岩村高俊、中島信行とともに兵庫を経て京に入り、中岡慎太郎なきあとの陸援隊に入ったが、そこで紀州藩の三浦久太郎が新選組をそそのかせて、坂 本、中岡を殺させたのだといううわさを耳にし、大江は、陸奥宗光、岩村高俊ら16名と共に三浦の宿に切り込んだが、三浦も用心のため新選組の土方歳三など をやとっていたので、大乱斗となり、双方に死傷者を出し、三浦に傷を負わせただけで、目的を達せずに引き上げた。

大 江たちが三浦を打ち損じた翌日、慶応3年12月8日に山内容堂が入京した。そしてその翌日9日には王政復古の大号令が発せられた。しかしこの時京都に在っ た会津、桑名の兵は戦意がきわめて旺盛で京都ではいつ戦が始まるかもわからない状態である。万一紀州藩が徳川家に味方して起つということにでもなれば全く 大変な事になる。これを押えるには、高野山に兵をあげ牽制するのが一番よいということになった。そして鷲尾侍従が総督としておもむくことになり、大江は岩 村たち6、70名と共にこれに従って高野山に向かった。

高野につくと先づ僧徒を説いてこれにしたがわせ、更に和歌山に書を送って軽挙をいましめたが、万一の場合にそなえて是 非共錦旗を奉戴していなければならないということになり、帰京して錦旗を奉戴して来る大役が大江に下った。

大 江は、12月26日に下山した。京都につくと直ちに正親町卿にそのむねを伝えたが、鳥羽伏見方面はまさに戦火が上ろうとする情勢に加えて、年末年始の多忙 な時であったので錦旗下賜が手間どってしまった。明けて慶応4年正月三日、やっと参内して錦旗並びに勅書を賜わったが、その時はすでに伏見鳥羽方面で戦端 が開始されていた。

万一にそなえて大江はかねて出入の刀屋の為助をやとっていたので、錦旗と勅書を浅黄 の風呂敷に包んで為助に背負わせて従者とし、自分は医者に変装して戦火の中をくぐろうとした。戦場を通り、或は間道を通り、兵士につかまると土佐へ帰る医 学生であるといって通してもらい、やっとの思いで6日の早朝高野に安着し、錦旗は高野の山高くひるがえって士気を更に鼓舞した。侍従は深く大江の労を多と して感状を与え、更に短刀一振と金一封を贈った。

高野に兵をあげたのは、紀州藩を牽制するのが目的で あったが、この際紀州藩を朝廷側に引き入れる必要があり、そのために、侍従はまたも大江を和歌山につかわすことになった。大江は単身和歌山に入り、朝命に 従うよう諄々と説き、ついに紀州藩をして朝廷側に引き入れることに成功し、大江は勇躍紀州の兵を率いて大阪に出た。こうして大江の働きにより、紀州藩は、 大義を誤ることなく、維新の動乱を切りぬけたが、大江が後年紀州藩と切っても切れぬ因縁を結んだのも、この時の活躍がもとになったのである。

大 江は、高野山の義挙によって、兵は組織的な団体訓練を受けたものでなけれぱならないことを痛感した。大江はかって宿毛で洋式部隊を二中隊編成したことがあ る。この兵を上京させ、鷲尾侍従に統卒させて東征の軍に加わろうと考え、鷲尾卿の賛成を得て後藤象二郎に談判して、高知の重役にあてた依頼状を手にして帰 国することになった。

2月15日に高知に着いた。直ちに宿毛邸で竹内綱、林有造等と会議し、更に伊賀陽 太郎を説いて皆の賛成を得たが、藩の執政はこれを聞き入れない。仕方なく林と大江は上京して、山内容堂を説き伊賀陽太郎の上京の許可を得た。やがて陽太郎 を擁立して東征することも許されたが、その間宿毛兵の出兵は手間どり、東征の軍はどんどん進行して全く手おくれとなった。

そのため大江は東征の軍に従うことを断念し、先づ京阪神で活躍することになった。

やっと宿毛で機勢隊が編成され宿毛を出発したのは7月14日であり、伊賀陽太郎も竹内綱、林有造等をつれて9月には江 戸に出、更に荘内に進み、10月26日には再び江戸に帰った。

明治3年、大江は官をやめて、兵庫の湊川付近に住んでいた。その地にフロノ谷というところがあり、他の町々とはまるで 様子が違い、ずいぷんみじめな生活であったので、種々様子を聞いてみると、賤民部落であることがわかった。あまりにも悲惨な姿をみて大江は考えた。

彼 等とて同じ人間ではないか、同じ同胞ではないか、それが何故に平等な社会生活を営むことができないのであろうか、五ケ条の御誓文にも「旧来の陋習を破り天 地の公道に基くべし」とあるが、依然として四民平等でないのは旧来の陋習が破られてないのではないか。このような賤民を解放して自由とするのが陛下の大御 心ではないか。

こう考え大江は部落解放を決意し、これ建言するために先づ、部落の実態調査をはじめた。これが明治3年8月、大江24 才の時である。

大江は岩崎弥太郎の世話で上京して大隈参議邸に入った。大江の賤民平等論に大隈も賛成し、所管の大木喬任文部大輔に取 り持ち、大江は大木にあって意見をのべた。大江の意見は
「彼等を平民籍に入れ、荒蕪地に移して開墾させて財産をつくらせ、更に皮革製造の大工業を興して彼等を経済的に自立できるようにしよう。」というのであっ た。

 大江はやがて自ら民部省の役人となり、賤民解放のために専念した。そうしてつい明治4年8月28日

  穢多非人ノ称ヲ被廃候条、自今身分職業共平民同様タル可キ事。

という太政官布告が出たのである。ここにはじめて穢多非人の称が廃止され、長い間差別で苦しめられてきた賤民も、平民と同等の権利を獲得するにい たったのであるが、これは全く大江の努力、大木の協力によってなされたものである。後年大江は天也と号して僧籍に入り、なおその生涯を部落問題にうちこん だのであるが部落解放の歴史の上で、忘れてならない大恩人がこの大江卓である。

明治4年10月28日、大江は、神奈川県令陸奥宗光のもとで働くことになり、神奈川県七等出仕に就任した。次いで11 月には参事となり、明治5年7月には神奈川県権令に進み、神奈川県政のため存分に腕をふるったが、中でも有名なのが、マリア・ルーズ号事件である。

明 治5年6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。海上で暴風にあい、鉛を修理するための入港で、船員はペルー人である が、乗客はすべて清国人であった。ところが、投錨後3日目の6月7日の深夜、やせ衰えた清国人が海中にとびこんで逃亡して、やっと、英国軍艦に泳ぎつい た。この男によって容易ならざる大秘密が暴露したのである。

「マリア・ルーズ号には自分と同じような清 国人が二百三十余人乗っている。最初我々はペルー人のいうところに従って、労働移民として乗船したのであるが、船中における彼等の態度は、乗船前の甘言と はまるきり異り、虐待に虐待を加えて来た。幸い横浜に入港していることを知り、生死を運にまかせて一身の救助を求めたのであるが、船中に居る不幸な同胞を 何とか救っていただきたい。」というのであった。この報はやがて大江にも達した。外務卿副島種臣の指導のもとに大江は徹底的に調査することになり、大江自 から特設裁判所の裁判長となって、この事件を裁判することになった。

国内でも、我国と関係のない事件に 深入りして対外的に事をかまえるのは得策でないとの意見もあり、更に独、仏、伊、蘭の諸国からも強い干渉があった。大江は人道上の重大問題だとして、これ らの圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。

船 中ですでに奴隷としての待遇をうけ、ペルーに上陸後は完全に奴隷としての生活をおくらなければならなかった清国人労働者が、大江の力で事無きを得たので、 これら清国人は涙を流して彼に感謝したという。清国政府もまた大江に大きな旗を贈って感謝の気持を表わした。この時彼はわずか26才でった。

やがてペルー政府は我が国に損害賠償を求めてきた。我が国はペルーと連署して明治8年にロシヤの皇帝アレキサンドル2 世の仲裁裁判を求めたが、露帝は日本の処置を正当と判定を下してこの問題は全く落着したのであった。

また大江は、芸妓や娼妓が奴隷と同じ状態にあることを知り、その解放も行った。

明 治6年征韓論は破れ、板垣退助、後藤象二郎、福島種臣、江藤新平、西郷隆盛たちが野に下った。当時大江が最も親しくしていたのは陸奥宗光であり、陸奥と共 に大江は非征韓論者であった。明治7年1月、大江は大蔵省に入り、明治8年にはじめて板垣にあって政治意見を交換してより、板垣を先輩として尊敬するよう になった。大江は明治8年10月7日に大蔵省をやめたが、これが彼の官吏としての最後であった。官吏としてのきゅうくつさが彼には辛棒できなかったのであ る。

この年大江は後藤象二郎の二女早苗と結婚した。後藤は同志を集めて蓬社を経営し、更に高島炭鉱をも経営してい たが、経営は甚だ乱脈を極め、大借金に苦しんでいた。大江は後藤のために、これの整理に当り、やっと後藤の急場をしのぐことができた。

明治7年に江藤新平は佐賀で乱を起し、明治10年になると西郷が鹿児島で兵をあげた。この報をうけて彼は、今こそ政府覆 の好機であると考え、林有造等と共に同志を糾合して起たんと志した。大江は「これは天与の好機会である、この機会に後藤の窮地を救い、彼をして乾坤一擲の 大芝居を打たさなければならない。」と考えたのである。林は銃器、弾薬の入手に着手、大江は、後藤、板垣、陸奥等の間を往来して彼等をこの大芝居の役者た らしめようと奔走した。

その頃陸奥の屋敷が木挽町にあった。そこへ1日同志の板垣、後藤、陸奥、林、大江、岩神昂が集まって協議した。

我 々が年来の宿志である民選議員設立の目的を達するには、この期をおいて他にない。そのために、先ず京都において木戸を説き、鹿児島征討の勅命を出させても らう、この運動は後藤が京都へのりこんで行なう。次に土佐の同志を糾合して実際に軍隊を組織するのは板垣があたり、両者気脈を通じて、時期の至るのを待っ て事を挙げよう、ということに決まった。

こうして表向きは鹿児島討伐の軍を組織するのであるが、その兵は実際は大阪城と松山城をのっとり、鹿児島軍に呼応して 政府に反旗をひるがえし、政府を覆 させようというのであった。

土佐軍が大阪城を占領すると、紀州、備前、鳥取、加賀の同志も起って兵を挙げる手はずもできていた。

その間大江は、木戸孝允、伊藤博文、鳥尾中将等の行動を調べ、ひそかに官辺の様子をさぐり、土佐軍の大阪突入と同時 に、これら重臣を暗殺しようと計画し、岩崎昂、川村矯一郎に説いてその準備をさせたのであった。

熊 本城は薩軍に包囲され、まさに落城寸前である。政府はこの苦況をきりぬけるために、土佐兵を募集して鹿児島討伐にむかわせる考えとなり、中島信行、岩村通 俊などのあっせんで、いよいよその実行に着手するまでに事が運んだ。大江、板垣たちは、心中ひそかに事をなす時期が来たと喜んでいたが、その頃、官軍はよ うやく熊本城と連絡がとれ、薩軍はやがて後退をはじめてしまった。官軍の勢が盛んになると土佐募兵の如きは、いつの間にか消えてしまった。

林 は3,000挺の銃器購入にその全力を投入していたが、その間土佐の立志社の内部でも、片岡健吉などを中心に、民選議院設立の建白をしようとの動きが強く なってきた。林は依然、挙兵を論じ、銃器購入が間にあわなければ、火縄銃を持ってでも事をあげようと論じた。しかし、立志社員たちは火縄銃では成功しな い、上海からの鉄砲3,000挺が来てからでないと挙兵できないと決め、ついに挙兵実行の機会を失ってしまった。

そ のうちこの陰謀を政府がかぎつけ、大江、林等立志社の幹部ほとんどが次々と逮捕され、玉乃裁判官のもとで、裁判が行なわれた。林、大江両人は、この事件は どこまでも2人で責任を負い累を後藤、板垣等に及ぼしてはならないと考え、判廷において自分達が中心で事を運んだと極力申し立てた。やがて刑の言渡しが あったが、林有造、大江卓、岩神昂、藤好静が禁獄10年、池田応助、三浦介雄、陸奥宗光が同5年、中村貫一が3年、岡本健三郎が2年、山田平左衛門、林直 庸、竹内綱、谷重喜、岩崎長明、佐田家親、弘田伸武、野崎正朝が1年、片岡健吉は100日という判定であった。。

 大江に対する申渡しは次の通りである。

     申   渡

            高知県土佐国幡多郡宿毛駅六十三番地士族

            当時東京府高輪町三十五番地寄留

                      弘長男  大 江   卓

其方儀明治十年鹿児島賊徒暴挙ノ時ニ際シ林有造岩神昂ト共二政府ヲ覆セン量ヲ企テ陸奥宗 光へ牒示シ又川村矯一郎二重臣暗殺ノ事ヲ教唆シ加之林有造力外国商ヨリ銃器弾薬ヲ何時モ取 入ル様差押スル事二立入一少ナカラサル金額ヲ同商二渡シタル科二依リ除族ノ上禁獄終身二処 スヘキ処軽減スヘキ事情アルヲ以テ除族ノ上禁獄十年申付候事

         明治11年8月20日               大  審  院

こうして林と大江は岩手の監獄に、陸奥と三浦は山形、藤と岩神は秋田、池田と中村は青森の監獄に送られた。

大江は林と共に岩手県の監獄に入り、7年間ここで過ごしたが、その間に父弘、一子真氏、また彼が入獄中に生れた娘於菟 三と引続いて3人の近親が病死した。獄窓の大江は全く断腸の思いで日々を過した。

大 江の入獄中後藤はその遺族のために月々の生活費を送っていたが、そのうち、大江には何の通知もせず、大江の妻早苗を後藤家に引きとってしまった。大江が罪 人であり、その将来に不安を感じたためと思うが、夫に無断で離縁させ、これを引取るとはあまりにもひどい仕打ちである。7年間の獄中生活を終り、明治17 年仮出獄を許されて東京へ帰った大江は、ここではじめてこの事を知り、つめたい獄中生活以上に人生の苦痛を味わったのであった。

大 江が獄中生活をしている間に、政界の形勢はいちじるしく変っていた。明治14年には自由党が生れ、15年には立憲改進党ができた。政府は集会条令をつくっ て、これらの政党運動に弾圧を加えたので、各地で騒動が相ついで起った。大江、林は自分等の獄中に居る間にできたこれらの政党を、一旦解散させ、新たに強 い組織をつくることを計画した。そうしてこれを板垣や後藤に働きかけついに後藤をして旧政党を合体して大同団結をつくりあげ政府攻撃をはじめようとしたの である。

然し政府は、この攻撃をさけるため強引に後藤をして入閣せしめたので、ついに大同団結は空中分解を起してしまった。

そ のうちに明治23年となり、第1回の衆議院議員の選挙がはじまった。大江は岩手の人々に推されて岩手第5区より立候補した。大江が岩手より立候補したの は、7年間岩手の監獄で暮し、岩手県民から少なからぬ信頼と尊敬をうけ、県民の一部から熱心に立侯補をすすめられたからである。大江は
「おれは頭を下げることも下手だし、口先も上手でない、もとより金もない、お前達が当選させてくれれば遊び半分にやってもよい。」というような調子であっ たが、みごとに当選をかちとった。

衆 議院議長には中島信行がなり、大江は予算委員長になった。第1回の国会では予算案をめぐって審議は混乱した。野党はただもの予算案に反対している。当時国 内にも国外にも日本で議会はまだ早過ぎるとの意見もあった。ここで決裂してしまっては尚早論に勝利を与えることになり、外国の物笑いとなる。こう考えた大 江は悪いところは改めるという、常識をもった審議を提案し、これに同調した土佐派の議員の協力によって、やっと予算案を多少修正して無事通過させることが できた。

第2回選挙は明治25年2月に行なわれた。大江はまたも岩手から推されて立候補した。この時 も、1回も選挙区へは入らず、理想選挙を主張して実行したが、今回は落選の憂目を見た。しかし彼は決して落胆はしなかったのみならず、むしろ喜んで政界よ り足を洗い、実業界へ転出を計った。

やがて彼は東京株式取引所の頭取として腕をふるい、更に八重山鉱業 株式会社を創立し、鉛管製造事業をもはじめた。また帝国商業銀行や日本興業銀行の創立委員にもなって活躍した。彼はまた東亜の風雲にそなえて製鉄所の設置 を主張すると共に朝鮮における京釜鉄道の設立を強く政府に提案した。更にまた巴石油会社をおこし、夕張炭鉱株式会社の創立にも力を尽した。こうしてあらゆ る重要事業をおこしたことから考えると彼はどちかといえば、経営の人というより創業設立の人であったようである。

京 釜鉄道は明治38年に開通し、日露戦争遂行に重大な役割を果した。その建設の間大江は、竹内綱たちとともに設立委員の1人として、12年もの長い歳月朝鮮 にて日夜心血をそそいでその業務に専念した。彼はまた単に鉄道事務のみでなく、韓皇室の顧問となり、水輪院の総裁にも勅任されて、韓国の内治にも少なから ぬ力を尽した。

明治41年、彼はラングーンよりビルマを経て、雲南に入り、未開の奥地を視察した。

雲南視察を終えて帰国した彼は老後を社会事業に尽そうと決心したのであったが、その時胸中に浮び上ってきたのが明治4 年彼の建白によって賤称を廃止された部落民の救済であった。

大江が晩年の大事業であった帝国公道会の設立に着手したのは大正2年である。公道会というのは「旧来ノ陋習ヲ破リ天地 ノ公道・・二基クベシ」より取った名称で、被差別部落の改善融和を目的としたものである。

彼 は、この事業に全力をそそぐためには、一切の俗塵をすて、厳粛な法戒をうけ、精進潔斎の心身を以ってせなければならないと考えた。こうして、大正3年2月 1日付で、「この度出家して妻子にも別れ、精進潔斎して、身を帝国公道会に委せ、細民千秋の冤をそそぎたい。」という意味の告別状を年来の知友に送り、名 も天也と改め、2月8日、曹洞宗管長、素童禅師によって、剃髪の式が行なわれ、老師より法衣を授かって名実共に僧籍に入った。

こ の時の心情を大江は後に左の如く語っている。「部落民に対してかつて多くの同情者があった。しかしながら、それらの人々は多く被改善者に対する改善者たる 地位に立つものであって、優越意識によって、それらの賤民に臨むような態度から離れることができなかった。これとて非難すべきではなく、その心情は美わし いものであったけれども、その効果に至っては未だ甚だ低劣なるものであることを免がれなかった。自分は、かかる階級的意識を捨てることが部落民のために働 く者の唯一の道であること考えた。大正3年自分が剃髪して仏道に入り、一切の俗縁を絶ったのは、実にこれがためであった。自分が仏道に帰依したことは、人 を説かんがためではなくして、実に自ら心を修せんがためであったのである。かくせざれば多くの人々に向って、何物をも説くことはできなかったのである。」

大 江は普通の世捨人とは異り、部落民を救済するため、法衣をまとって野に伏し、山に寝ね、諸国を遍歴する身であった。事実大江は素童禅師よりいただいた法衣 をまとって全国を巡回し、またたくまに全国に組織をつくり、四百数十名の会員を集めた。こうして大正3年6月7日、帝国公道会の設立総会を開いたが、大江 は座長として経過報告をなし、会長に板垣退助を選んだ。後には会長は大木遠吉となり、大江は副会長として、死にいたるまでこの会のため、部落のために力を 尽したのである。大木遠吉は、明治4年大江が賤称廃止を建言した時の大木喬任文部大輔の子息であり、大木も父子2代にわたり部落のために貢献したのであ る。

大江は幾度となく全国を巡回し、その足跡の印せざる地はないとまでいわれている。その間部落民の北海道移住にも力を入 れ、又部落の歴史的研究をもおこたらなかった。この研究は時の学者でさえ驚嘆する程のすばらしいもので、後世、部落史を研究する上にも非常に役立ってい る。

大正8年6月10日、大江は板垣を訪問した。板垣は病気で寝ていたが、病室での2人は1日中話がとぎれなかった。板垣 は、
「白色人種は有色人種を軽蔑している。有色人種といえば劣等人種のように考えて、まさに奴隷あつかいをしている。まことに残念でたまらない。有色人種が優 秀な文明を発揮して白色人種と平等な地位に立たねばならぬ。ところで今の東洋の知識や科学の程度ではどうしても駄目である。何といっても教育も低く文明も 劣っている。それで自分の考えでは、東洋の中心たる支那に一大学校を建て、印度人でも、南洋人でも蒙古人でも、チベット人やペルシャ人までを一丸として、 どんどん教育して、有色人種をして将来世界を支配出来る文明人種に育てあげなければならない。これを行うには日本人が率先して指導せねばならぬ。この話は まだ誰にも話してないが、どうだ一緒に運動しようではないか。」

大江がこの日板垣を訪ねて話そうと思っていた要件も、全くこれと同一意見を実行することにあったので、
「それは不思議である。自分が考えていたことと、今の話とは全く同じことである。自分はユダヤ人の建国を日本政府にやらせて、蒙古の北方にユダヤ国を建設 し、支那にアジヤ大学を建て、大いに有色人種の文明を進めようと思い、このことを話すために来たのであった。」こうして2人の考えは全く一致し、2人はと もに声が出なくなるまで話しあった。

大江の賤民救済は、国内の賤民だけでなく、世界の賤民ユダヤ人の救済や、差別をうけているアジヤ人の幸福のためにも目 をむけたまことに壮大なものであった。

その翌月板垣は逝き、翌大正9年には大江も健康すぐれず令息太氏の邸で養生生活に入った。彼は病気が胃癌であることを 知って、自ら身辺の処理を万端おわり大正10年9月12日75才の天寿を完うして、眠るが如く静かに世を去ったのである。

か えりみれば大江の一生は実に多難な一生であった。また波欄万丈の一生でもあった。彼と行をともにした知人、友人は、ほとんど華族に列し、官界、財界で名を なしている。ひとり大江のみ無位無冠、ひたすら法衣をまとって全国を行脚し、部落解放に全力をうちこみ、差別のない、平和な日本を建設しようとしていたの であった。多難な一生ではあったが、また有意義な一生でもあったわけである。

大江は号を揚鶴または元良といった。

大江 卓 大江卓書
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