宿毛市立宿毛歴史館

竹内 綱・竹内明太郎

竹内 綱竹内 綱
竹内明太郎竹内明太郎


竹内綱は通称を万次郎、諱を吉綱と呼び、号を武陵と云う。天保10年12月26日宿毛町に生れた。父は庄右衛門梅仙と云い代々邑主安東家(宿毛山内家、後の伊賀家)に仕えその重臣であった。彼は頭脳明晰で特に理財の才に長じ、当時びん乱していた安東家の財政立て直しに功があり人々はその偉材に感服した。当時彼はまだ21才の青年であった。

慶応2年7月3日、安満地浦(現在の大月町安満地港)に黒船が入港して宿毛湾内はにわかに騒然となった。伊賀家では超えて4日、老役の羽田左膳と彼に歩兵二箇小隊を率らせて安満地浦へ遣わした。彼等は漁舟十余隻に分乗してこれに向ったが、現場に到着して始めて黒船の実態を見て、いかなる方法をもってしても到底、彼等が全く歯の立たない巨大な存在であることを感得した。全く未だかつて見たこともない巨大で怪異なかっこうの黒船が、数門の大砲を掘えて碇泊している。わずか二個小隊の陸兵が木の葉のような漁舟でこれにむかうのは、蝿の小群が黒牛にむかうようなもので勝敗のあまりに明白なことを見きわめ、彼は厳重に兵に発砲を差し控えさせた上、単身、小舟に乗って黒船に漕ぎつけた。黒船に乗りこんで談判を試みたが何分にも言葉は全く通ぜず、どちらも何のことやら、ちっともわからなかったが、その内黒船の士官が「和の英語箋」と云う書物を持ってあらわれたので、互にその本にある単語を指摘し合って、やっとのことで海岸測量のために寄港したこと、英国船であること、明7月5日午前中に出港すること、を確かめることが出来た。

彼は船上で士官から洋酒を振舞われ、互に酒杯を献酬してなごやかな空気の中の取り引きで帰って来たが、尊王攘夷と国内はわいていた時代のこと故、これがもとでざん言されてちっ居を命ぜられた。彼はいずれ切腹の命令が下るものと覚悟していたが、丁度その折、高知の宿毛屋敷留守居役から連絡があり、それによると、例の英国測量船は須崎の港にも入港したが土佐藩では、これに牛肉、卵等の食糧を贈ってこれを遇したとのことである。これによって幸いにも命はとりとめちっ居も解かれることになった。

慶応4年伊賀家の世子陽太郎が京都に遊学する事になると彼は選ばれて、その補導役を仰せつかって近習、医者その他を随えて陽太郎の伴をした。彼は陽太郎の京都での生活の責任者として精勤を励んでいたが、その内陽太郎はにわかに奥羽征討軍に加わることになった。彼はよくこれを輔佐して二個小隊を率いて越後から出羽、庄内に入って奮戦した。凱旋後、功によって刀を賜ってその功を賞せられた。

明治2年には大阪府典事となり、ついで参事となった。同4年には大阪造幣寮が開設されたが、新政府はそのために政府要員をたびたび大阪に派遣して仕事に当らせた。大阪府参事竹内綱が伊藤博文と親交を結んだのはこうしたきっかけで、伊藤は当時政府の役人としてたびたび大阪に来ていて彼と知合ったわけである。彼は伊藤に廃藩置県論を提示して多いに伊藤を啓蒙したと云う。明治7年10月に大蔵省6等出仕に任ぜられたが、同8年12月に辞職して官界を去った。そうして後藤象二郎の経営する蓬社に入り、社長となって高島炭坑の経営に従事した。

明治10年、西南の役が起きると、林有造達は西郷隆盛に呼応して挙兵し、一挙に大阪鎮台を陥れる策を練った。この時彼は有造を援けて新型洋式小銃3,000挺の入手に奔走した。これより先、明治7年の征台の役に外国より購入した小銃が不用になって目下、外国商人の手にある事を知った彼は、これに目をつけ800丁の鉄砲を手に入れた。しかしこの事が露顕してついにとらわれの身となり、林等は禁固10年の刑を云いわたされ、彼も禁固1年に処せられ新潟の監獄に服役して事が終わった。

出獄の後は専ら板垣退助を助けて自由党の組織に従事した。明治23年、帝国議会が開設されると彼は高知県から選ばれて衆院議員になり、一時中央政界で活躍したが、明治29年、朝鮮に京釜鉄道が興るとその常務理事に送ばれて爾後実業界に雄飛した。明治40年京釜鉄道が国有となると、彼は東京に引き上げ、それからは帝都の実業界で活躍している。

明治45年、高知市に三十余万円(現在の数億円)の富を投げ出して独力を以て私立高知工業学校を創設した。当時、高知県は実業教育は全く他の県に立ち遅れていて、高知商業学校が高知市立として存在しているのと、県立では高知農林学校があるのみで、殊に多額の施設設備を必要とする工業教育については全く手をつけていない状態であった。

彼は工業立国化する日本の将来と郷土高知県の後進性を打破して、教育の機会均等を助ける意味から全く独力を以て工業学校を創設したものである。その後、その必要性が認められ、県立に移管され、今日の高知工業高等学校にまで発展したもので、彼が郷土の文化発展に貢献した功績はまことに偉大なものである。戦後、移転新築した潮江校舎の玄関両脇に綱並に長男明太郎の銅像が建立されて、今に学校関係者からの尊敬を一身に集めている。大正11年1月9日84才を以て東京の自邸において歿した。

綱は人となり宏量、すこぶる気に富み、殊に経済の才に長じて一代を以て巨万の富を成したが、またよくこれを散じて公益の事業につくした。また風雅の心も厚く特に詩を嗜み、その作品はまことにうるおいのあるものである。次の詩は清国に遊んだ時の作である。

        金   陵

   満 月 荒 涼 千 古 悲  金 陵 王 気 奈 推 移

   逢 人 休 問 前 朝 事  自 有 山 河 語 盛 衰

        溯 長 江

   四 顧 洋 々 煙 水 郷  征 帆 千 里 去 飄 揚

   江 連 潮 処 香 無 際  卵 色 波 光 浸 大 荒

綱の息竹内明太郎は父を助けて高知工業学校設立には大いに努力した。又高知県より推されて代議士となり、高知県の鉄道開発を叫んでいたが宿毛線設置の目途もつきかけた今日、地下の彼は定めし喜んでいる事であろう。又吉田家へ養子として行った五男茂は首相として、又外交官として世界的人物であることは世間周知の通りである。

竹内 綱 竹内綱書 竹内明太郎
竹内 綱 竹内綱書 竹内明太郎

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