宿毛市立宿毛歴史館

坂本 喜治馬

坂本喜治馬坂本喜治馬


坂木嘉治馬は慶応3年10月4日、坂本喜八の長男として、宿毛町字坂の下に生れた。先祖は邑主安東家の馬廻り役を勤めたが、父の代には家が貧しく染物業を経営していたので、彼もまた父の業を助けて、18才迄家業を援けたが、父母に内密に毎日小使銭や商品の利益の一部を5銭、19銭と貯えた金を旅費として、明治17年青雲の志止み難く、無断で上京を決行したものである。

僅かの旅費を懐にやっと東京にたどりついた彼は先づ父の恩人、郷党の先輩である酒井融を訪ね、身の振り方を依頼した所、融はこれを小野梓に託した。小野梓も又宿毛出身であり、当時東洋館という書店を経営していたので、彼は一見、嘉治馬の性格才能を見抜いて、喜んでこれを迎えて東洋館に雇い入れた。嘉治馬は勤勉正直によく勤務したので、大いに梓の信用を得て、将来我が国屈指の出版業者となる幸運の端緒をつかむことが出来た。

明治19年、小野梓は病でたおれた為、東洋館の経営に一頓挫を来たした。彼は途方に暮れたが、同じ郷党の先輩小野義真を訪ねて、その窮状を訴えて援助を求めた。小野義真は後輩嘉治馬の人物の並々ならぬ傑物であることをよく見抜いて、今後の援助を快く承諾した。後年彼が小野義真から事業上、莫大な援助を受ける事になったが、その縁故は実にこの時の嘉治馬の真剣、真面目な態度が義真を動かしたことに始まると云うことが出来る。

嘉治馬達の努力もむなしく、東洋館は次第に経営が行きづまり、遂に解散のやむなきにまで追い込まれた。店を失った彼は全く途方に暮れたが、ついに独立を決意し、百方手をつくして小書店を開いた。そうして寸時を惜しんでの研究と努力は次第に店の規模も拡げることが出来、ついに合資会社富山房を経営するに至った。富山房の名は彼の先輩小野義真が命名したものである。

明治36年、国民百科辞典の大出版を企て、一度これが世に出ると、洛陽の紙価を高めたといわれたほど評判がよく、矢のような売れ行きであった。これによって経営の基礎は完全に固まって、ついに隆々たる大富山房の出現を見るに至った。

この間に冨山房は幾度もの火災にあったが、不撓不屈の彼は、常に復興に努力して社運は益々盛大となった。

嘉治馬はすこぶる公共心に富み、種々の慈善事業に浄財を投じたが、特に宿毛町の発展については、非常な関心を持ち、進学出来ない貧しい家庭の子弟には惜しげもなく学資を結与して勉学させ、又自ら郷里に図書館を建設して地方文化の向上に尽力し、又神社仏閣に多額の寄付をしたこと。又郷里の学校や公共団体に多くの図書の寄贈等、郷土のために巨額の経費を投じていることは、世人誰にも知れわたった事実である。

子息守正も又父の業を継いで冨山房を経営するかたわら、郷里のためこれまた巨額の浄財を投じてその発展に貢献している。宿毛高等学校は彼の出資によってはじめて設立が決定したもので、大東亜戦争のまっ只中に当時の金300万円(現在の3億円?)を彼が寄付して県立旧制中学校として設立されたものである。宿毛高等学校並に宿毛中央公民館前に、彼の美徳を記録した頌徳碑が建立されている。

坂本嘉治馬については、富山房発行の「冨山房50年」の中に詳記されている。その中で彼自身の記した「追憶70年」は彼の一代を知るに最もふさわしい興味ある記録である。今彼の少年時代、上京当時の記を転記してみることにする。


上 京

前にも云ったように、自分は7、8つの頃から父に始終北越戦争の話や、病気の時お世話になった酒井翁の話を聞かされていた為でもあろうか、子供の時から軍人になって見たいような気がしてならなかったが、家庭の事情からして、どうにもならなかった。しかし、どうしても東京へ行って勉強して、教導団に這入りたいと常に考えておった。そしてその時は父の恩人酒井翁に、もう一度お世話をして貰うつもりであった。

勿論その頃は宿毛へは汽船の往復はなし、今日のように交通路は開けておらなかった。何しろ、その時分お江戸へ300里、往き還りで600里といっていた片田舎だから、東京行の路銀なども、皆目見当がつかなかったが、当時村の先輩で、北海道で測量の役人になっている竹村五郎、品川でら卒を勤めていた岡添礼助という人を知っていたので、その人々へ度々手紙を出して、酒井翁の住所や旅費のこと、東京へ行く道順などを聞き合せてやったので、酒井先生の所も、旅費も追々見当がついて来た。それで、3年程前から貯金箱を作って、母の手伝いをしたり、遠く7、8里のところへ荷物を背負って行って、翌日帰って来た時などに貰った5銭、10銭位宛の御褒美としてその貯金箱へ入れることにしたが、3年程すると7円ばかり貯った。

さて飛び出す準備は出来たが、一つ困った事は、自分が東京へ行きたいといって両親に頼んでみたところで、当時の家庭の事情から、殊に両親とも非常な子煩悩であったから、とても許してくれる見込は絶対にない。そこで何か口実を設けて結局脱走する外ないと肚をきめた。それが丁度、明治16年12月の初め頃であったと記憶する。

例の通り、大きな荷物を背負って、家から7、8里もある処の各村落を回っての帰り途、3里ばかり続いている坂道で休みながら、空想に耽っている中、この年末に東京出発を決行しなければ、再び機会は回って来ないかも知れない。それにしても宇和島まで行かないと汽船がないから、宇和島行きの口実を何かこしらえなければ出ることが出来ないと思った。それには自分の家から7里ばかり離れている所の親戚で、自分が得意回りに行った際など、時々泊るおばさんの家があって、そこの主人が極めて義理堅い実直な人だということを、時々両親から聞かされていたが、これが大の敬神家で、毎年必ず一度は讃岐の金比羅さんへ参詣し、家の座敷の天井には、金比羅さんの大きなお札がいっぱいに貼りつめてあったことを記憶していたので、この人から宇和島へ行くことを頼まれたことにして、両親に話したら必ず承知することは間違いない。宇和島まで無事に行って、直に神戸行の汽船に乗込めばもう大丈夫だから、家へ帰りついたら早速この事を話して、翌朝出発しようと、こう肚を極めこんだ。

勿論、話をしたが最後、直に出かけないと尻がわれるからである。また宇和島は、宿毛より10里の所で、1日の行程であるから、両親へは1泊で帰ることに話した。この人の使という訳で、何の疑念もなく易々と承知してくれた時は嬉しかったが、また何かすまないような自責を覚えた。だが、人間の信用は強いものだと云うことを、この時、子供心に感じた。自分が今記憶にハッキリ残っているのは、この山道の谷間で静かに考え込んで、いよいよ決心した刹那であった。

帰るとすぐ両親に話をしなければならぬ。さもないと機会を失する。しかし、そこは子供である。覚悟は極めても、何となく不安を感じた。家が近くなるほど更に不安と淋しさを増した。貧乏な家庭の両親を後にして、少くとも10年は再会出来ないことなど、自分にとっては大きな問題であると同時に、両親にとっても大問題であるからである。当時の心境をおもうにつけ、今もその時の様子がありありと目に映る。

そして翌朝、5時頃家を出た。その日はちらちら雪が降っていたが、1里ばかり行くと松尾という上り下りで、4里ほどもある有名な山坂にかかった。その頂上でゆっくり休んで、自分の家を眺め、別れを惜しみながら宇和島へ急いだ。

途中1人の友人に出遇った切り、午後4時頃宇和島へ着くまでは誰にも遇わなかったが、宇和島の瀬戸熊と云う宿屋へ落付くと、偶然にも同郷の元の友人矢野寅一君に出会わした。この人は郷里での大きな酒屋の息子で、家は富んでいる上、当時神戸の親族の銀行に勤めておられて、いわゆる錦を着て帰るのであったが、「君は何処へ行くのか」と尋ねられたので、事情を話すと「旅費はいくら持っているか」との事であった。「7円持っている」と云うと、「それでは足りなかろう」と云って10円を投げ出してくれた時は非常に嬉しかったが、何だか夢のような気持がした。自分は3年もかかって、やっと7円貯めたのに、いきなり10円と云う大金を貰ったからである。

矢野君と別れ、直ちに神戸行の汽船に乗込んで神戸に無事上陸し、もと郷里で材木商をしていた愛媛県人で兼池という人の息子で、自分と最も親しかった同姓武太郎という友人を尋ねて、2、3日そこに滞在し、それから構浜行の汽船に乗込み横浜に着いた。横浜から新宿へ来て、たしか日比谷の今の都新聞社の近所と思うが小さい宿屋に落付き、その日直に父の恩人、酒井融翁を番町に尋ねた。

丁度お役所でお留守中であったが、奥様に上京の事情を取次いで頂いた所、主人の帰るまで待っておれとのことで、暫く玄関で待っていると、車やさんが、大きな声で「お帰りッ」とどなった声にびっくりした、暫くして、お目にかかることが出来た。「自分は喜八の子であるが、父が北越戦争から帰って病気に罹った、毎日御見舞下さって非常にお世話になったお蔭で、一命が助かったという事を、始終父から聞かされ、一体ならば、その伜として、少しでも御恩返しをするのが当り前なのですが、どうか私をもう一度御世話して頂きたい」とお話した。

すると、暫く自分の顔を見つめておられたが「ムー、どこか喜八によく似ている。まあここに居れ」と云われた時は、嬉しいやら、安心やらで涙が出た。

2、3日居るうち、熊本の男で書生が居て、だんだん聞いて見ると、教導団に這入る準備の勉強をしているとの事であったので、自分もかねての希望であったから、何とかして入団準備の勉強をしたいと思って、或る時、酒井翁に「これから私に車を挽かして頂き、役所でお待ちしている間を何処かへ勉強にやって下されば、教導団に這入ることが出来ると思いますから」とお頼みした。

ところが或日、翁によばれて行くと、「同郷の小野という人が書林を開業する筈であるから、この手紙を持って行け」とのことであった。

そこで宛名の場所へたづねて行と、それは神田の小川町で、今の神田橋から駿河台に向う十字街の西角に当り、たしか東洋館事務所という札を掲げた家であった。

ただちに2階の小野先生の事務室へ通されて、先生に初めてお目にかかったのである。そしていろいろ郷里のことなど聞かれて、自分の上京の目的を問われたから、教導団に這入って軍人になりたいとお話したら、「軍人もいいが、学校に這入ると、相当学資も入るから、学資のない者にはなかなか難しい。軍人になって働くのも、国のために尽すはたらきにかわりはない。商売人になるなら、この東洋館の店に這入れば、夜は勉強も出来るしするから来たらどうか。」と云われたから「とにかく酒井先生にお話して明日参ります。」と挨拶して、一先ず引き取った。

それから帰って酒井翁に委細をお話したら、「是非、東洋館へ這入ることに極めたらよかろう。」と云われたので、自分も決心して、翌朝小野先生にお会いして、東洋館へ入れて貰うことになった。これが私が小野先生に初めてお目にかかって、生涯を出版業に託する機縁となったいきさつなのである。

酒井翁は極めて厳格な人で、同家でお世話になった約1カ月間、いろいろと有益な教を下さったが、殊に土佐人は一体に気が短いというので、忍耐とか根気とか云う事について教えを受けたことが、後に非常に役に立った。勿論、東洋館へ這入ってからも、酒井翁の御宅へはときどきお何いして、我が子のように可愛がって貰ったが、自分が東京へ飛び出した動機ともなり、また小野先生との結びの神となったのも翁であるから、不思議といえば、不思議な因縁である。

東洋館は間口は6、7間で、大きな土蔵造りの和洋折衷ともいうべき立派な家で、当時、神田には勿論、東京中でも、余り見受けない位の店構えであった。

そこで、小野先生が、「お前の名はむつかしい名で呼びにくいから、変え名を「栄吉」としたい。」という御話で、その後、東洋館では、その名で通したが、後に考えて見ると、先生のお父さんが節吉で、先生が鉄吉であったから、商売人になれと云うので上に「栄」を付けて「吉」を貰った訳である。先生はいつも東洋館へ御出になると、奥の一段高い日本座敷に机を構え、始終そこで「国家汎論」の著述をし、また事務も取られた。店員は6、7人居ったが、みな30前後から40位の人斗りで、自分が一番若僧であった。

坂本喜治馬 富山房 坂本喜治馬誕生地記念碑 坂本喜治馬銅像
坂本喜治馬 富山房 坂本喜治馬誕生地記念碑 坂本喜治馬銅像

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