宿毛市立宿毛歴史館

北見志保子

北見志保子北見志保子


北見志保子は、本名を川島朝野といい、旧宿毛町土居下189番地川島享一郎の長女として生れた。

当 時自由民権の運動は、土佐を中心として、全国的にひろがり、宿毛にも林有造、竹内綱などの先覚者があり、一般の人々も政治に大きな関心を抱き、この運動に 奔走する者が多かった。志保子の父、川島享一郎もその1人で、このために東奔西走、遂に他郷で客死するにいたった。その結果として、もともとあまり豊かで なかった志保子の家庭は貧困の底に追いやられずにはおられなかった。もとよりその家庭の経済的苦境がにわかに改善される筈はなく、志保子はやや長じて中村 の裁縫教員養成所に入学したが、6人の子供をかかえた当時の母の苦労は相当なものであっただろうと想像される。

  貧しかりし故里の家の庭桜かたむきし軒に散るはまぶしも

  人なみに学ばしめんと亡き母が売りしこの山うしろつつじ山

  金鳳花またすかんぽの花咲く土堤に痛々し母のひと世思ひ出づ

と後年になって、母を慕い母への心から感謝を詠っていることでもそのことが察しられる。そして

  わが歌の石ぶみにしるすうたごゑのつちの底なる母にひびけと

と号泣鳴咽して、亡き母生前の苦労に謝し、心からの慕情を述べるのである。

志保子は、裁縫教員養成所卒業後一時郷里の小学校の教壇に立っていたがあり余る才能と青雲の志をもつ彼女を長くは郷里にとどめてはおかなかった。

や がて文学修業の志を立てて上京し、教師をするかたわら、文学の勉強に励んだのであったが、そのころすでに歌人として頭角を表しかけていた橋田東声と結婚し たのが大正2年のことである。そして大正11年合議の上、別居(7月)、離婚(11月)するまでの間は、全く故郷とは無縁であり、その間のことはつまびら かでない。おもうに家庭人としての仕事にいそしむかたわら文学修業にはげみ、後期にいたって東声との性格の相違に悩み苦しんでいたのではなかろうか。

大正9年からしばしば奈良の須山邸に寄寓し、奈良の古美術、周辺の自然を愛し、鑑賞したものであるが、大正11年7月東声と別居、やがて合議離婚後、大正12年9月までは専ら須山邸に滞在している。

  人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき

こ れは、多分この頃外憂の浜忠次郎への恋慕の情を詠ったものであろう。志保子の浜忠次郎への愛情はその後、一時の感激ではなく生涯の情熱となっていくのであ るが、そのことは「花宴」の北見志保子追悼号に側近の人人から詳細に述べられている。やはり人は人を得ることが最も大切であるとしみじみ思わされるのであ る。

大正12年9月東京大震災を機に東京に帰り、13年末浜忠次郎と結婚した。

そ して専ら歌作に専念し、年と共に大をなしていったのである。即ち大正14年水町京子、川上小夜子、長岡とみ子と歌誌「草の実」を創刊し、古泉千樫の指導を 受け、昭和2年歌誌「青垣」創刊と共にその同人となり、同3年処女歌集「月光」を出版した。また徳田秋声に師事して小説の創作にも志し、山川朱実の筆名で 短篇小説集「朱実作品集」を出版したのは昭和9年であるが、自分の進むべき途をその後短歌にのみ求め、短歌の創作に専念したことは、あるいは、自己のもつ 抒情性を直接に世人に訴えたかったためではなかろうか。このころから小説への筆を断っていることでもそのことはうかがわれる。

昭和10年、北原白秋がその歌誌「多磨」を創刊するに及んで同人となり、大いに活躍し、かたわら昭和12年には川上小夜子と結んで歌誌「月光」を創刊した。

昭和16年には樺太に遊び、随筆集「国境まで」を山川朱実の筆名で出版している。

昭和21年同じ白秋門下の筏井嘉一とはかり「定型律」を創刊。

昭和24年には、流派結社を超え、あらゆる匿名女流歌人を網羅した「女人短歌会」を結成し、その発行責任者となり中核的存在として大いに活躍した。

また志保子は向学の心厚く昭和25年慶応大学聴講生となり、折口信夫(歌人釈迢空)について国文学を学び、また武田裕吉に万葉集の指導を受けている。そしてこの年歌集「花のかげ」を出版した。

    歌集「花のかげ」抄

色冴えぬさうびなりともただ一輪がかもす情操にひしがれてゐる

濃きさうびゆるるは女の姿態したいともなよやかにしてしかもとげ見する

スヰートーピ机上の灯に浮き優しく咲けり逃避ぐせつきしもかかる夜なりき

花と花きそひ咲く季節の女ごころめざましとわれはまなこをつぶる

秋の夜は誰に会ふさへうとまれてショートケーキのことひとり思ひゐる

つづまりはわがとくとなりゆく友のはなしあいたいと迷ふ秋の夜の雲

つらつらま向ふ菩薩はまなざし伏せて何を秘たまふ風俗のわが眼に

鐘の鳴る初夜をにいでて思ひみる個愁の歎きつるときやいつ

あゆみこしわがひと筋の道いとほしさ古鐘きく夜はなべて追憶

東大寺の僧房にひとり聞く初夜の鐘旅愁しみじみたへぬ思ひに

平城山をいくたび越えてフランスのつまを思ひ堪へたりし年月としずれの流れ

夢にも見えぬフランスを恋ひたれば憧れは日日われをさいなみし

雲たかく秋の月さゆるをおづおづと夜更けの庭にいでて涙す

愚かしきも富めるもみなひと色のしらじら敗戦の民とさすらふ

世わたりのあやもしらぬまに人生の終りまで生きぬつまたよりに

建ちなほる国の年月思ふさへ愁ひはとほき死へのつながり

雑沓の隙間より入り来し個愁かもやりがたきおもひにまちなかあゆむ

極東にほこりなす国のたみといへども育ちしわが日にあかるさありき

垣内に木槿むくげさく家に移りきて朝夜ふたりのたつきやすらふ

疲れたる身をしいたはるときをなく宵月澄む夜しばし縁にゐる

旅ゆくと夫があさ餉の膳の上八重山茶花はしみてましろし

われをおく旅とおもほへいでしなに風邪をひくなといひ給ふなり

何すれぞこの国寂しと歌うたふ山野さんやは四季の花咲くものを

山桜わがゆくみちに散りしけば古鐘こしょうさへ春無情とや

花吹雪奈良はうつつの夢にして孤独といふもげにこのこころ

春愁とはすでにりしとおもあげてまむかふ春日かすがの山ざくら花

はらはらと桜散るなり東大寺の古鐘こしょういんにたへぬごとくに

若き日のひたすらなりし故里よその日の嘆きはけふにつながる

空たかくたましいのこゑは若きわれを鞭うちやまざりしふるさとの姿

わがひと代に思ひみざりしことげて宗谷海峡目路めじにひらけたり

地上に埴物のみがあるさまは肝に銘じていさぎよきもの

わが乗る船ひとつ浮べてさびいろの海はつづけり千島よりまだ北へ

ゆゑもなくこころあたたかにオホツクの海に向ひて石ひとつ投ぐ

オホツクは秋の日くらく洋洋とつかみどころなきわが代にも似て

忘れゐし世界歴史をくりひろげここよりさきはわが国ならず

年間へばとうと答へし子がひとみつひに亡ぶる種族のいろか

枯るるものみな枯れてのちやむ雨か秋雨あきさめはけふも土にしみふる

下草にしみてはふれど春の雪の浅茅ケ原に花とみだるる

人恋ふはかなしきものと平城山ならやまにもとほりきつつ堪へがたかりき

古へもつまを恋ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ

はるばると遠きわたりの蓼科やかすめる夜夜をひとりみるかも

百日紅ちりて夏すぐるむらだちすさまじければむかし人思ひいづ

愛憎あいぞうにいきまきし時も捨てざりし歌心のごとし燃ゆる百日紅

とるに足らぬ自分の力量と思うけふほどの歎きは知らず春のひと日に

人と人あらそいやまぬ時すらもあやしきまでに雲は彩なす

その愁ひいまにつながる思ほへば生きぬきて来し女のひとり

思ひきりものいへぬ世にありかねて消えむとおもへわがいのち燃ゆ

人間ゆゑにわれはつつめりらだちをさながら声になきゐる葭切

わが夢を死の後にかけて生きつぐをうちに識りつつけわしきはいはず

白い死を独りの旅におもひにしその夜にも似て月照りかがやく

このころには既に女流歌人として の位置も定まり、その年の新年歌会始にも召されたということもあってか戦後初めて帰郷し、高知市では高知市在住の歌人、著名人たちによって盛大な歓迎会が 開かれている。この時宿毛へも帰っているが、宿毛では未だこの歌人の帰省を迎える零囲気もなく、まだそれほどの理解もなかったようである。

  山川よ野よあたたかきふるさとよこゑあげて

  泣かむ長かりしかな

はその時の作品で宿毛小学校校庭の歌碑に刻まれている。

昭和27年「花宴」を創刊し、いよいよ独自の歌風をたて、後進の育成にも力を注ごうと決意を新たに出発したのであった。

昭和28年、初めての歌碑が郷里宿毛の母校、宿毛小学校校庭にたてられ、その年5月歌碑除幕式のため古里に迎えられて東京の歌友の多くを伴って帰郷した

これが志保子帰郷の最後となったのであるが、その時の感激は五十余首の作品となって歌集「珊瑚」におさめられている。

   珊瑚歌集「珊瑚」抄
     ふるさと(一)

浜松はふるさと讃ふる春の歌白砂にさえて帰り来にけり

松籟は霞のなかに消えゆくをなにに慰む白砂ふみて

白砂による浪もなき太平洋よりどころなけれ大いなるかも

海鳴りは沖の霞のなかよりかわがたつ渚にさざ波とよる

あこがれて泣きし日のごと磯松風は春のなぎさを吹きつたひゆく

ふるさとの太平洋に向ひつつ涙垂りをり寂しさたへず

貝殻はあはれに白く年月を波のさしひきにまたもまれゐる

生ひたちの華やかなりし友の多くをかなしび思ふふるさとにきて

雑木山を吹きおろす風は、咲きみつる桜をバスにふきみだりつつ

桜ちる岨山みちを木ごもりを傍目もふらぬバスにゆられて

山ふかき雑木若葉の夕の照りバスに疲れし眼にくろぐろと

バスの窓は限りも知らぬさくら花峡より嶺に咲きつづきたり

荒磯の岩の間たゆたふ浪にぬれ海草とるらし裸身の子らが

太平洋の荒磯の崖に咲くしどみ眼にしみて紅しふるさとの道

うみどりは春の荒磯の浪にゆれ航く船は遥かなり雲にうかびて

桜散るそば山おりきて太平洋の海にむかひてひとりなみだす

帆船もみえぬおだしき春の海堪へこし悲傷を今更に思ふ

ゆふかげに浜松の風いたくふき故郷のかなしみここに甦る

帰りゆく母なき家のともしびをうら堪へて遥かなり太平洋は

岸のべの松は伐られて過ぎし日の面影くらきふるさとの川

ひた走る幡多の街道をバスにゆられ丘さ草さへみなわれに向く

山川よ野よあたたかきふるさとよこゑあげて泣かむ長かりしかな

海の上に赤い太陽がのぼりゆくふるさとびとはみなこおしかり

胸の中に黄の花がさくまぼろしの人ありて果てなしわが思ひむせぶ

     ふるさと(二)

戸を閉ざさず夜はいね易きふるさとの畳いろのねもごろさぶし

貧しかりし故里の家の、庭桜かたむきし軒に散るはまぷしも

向つ嶺もうしろの丘もつつじ咲く水門みなとの波のひかりにぬれて

天つ光ただ冴え冴えと照りわたる屋根傾ぶきし亡き母が家

人なみに学ばしめむと亡き母が売りしこの山うしろつつじ山

手繰り寄せてすぎし日思ふゆたかなる恋慕にたへめ幼きともどち

金鳳花またすかんぽの花咲く土提に痛々し母のひと世思ひいづ

帰りきて太平洋を見るいまは遠きなげきもすでにすぎけむ

恋ひやまぬふるさとに来て太平洋のつやめき霞む海にむかへり

     ふるさと(三)

拙きわが歌の石ぶみ、生れし町の小学校に建てらる。ひとへにふるさとの人のこ

ころあたたかき賜にして、ただ感にたえず。

いのち死なむと心決めし日もふるさとの山川ありてつひに止みしを

田植ちかき水田の上をうすうす照らす今宵の月はもやごもりたり

いつの日にまた来むものかふるさとの水田の蛙けけろとなける

土あかき四国山畑の麦畑うみにむきしは黄にかがやけり

野も山も若葉にもゆる土佐をきて郷愁やる方なし古き友らよ

道のくま山のそがいに紫の栴檀の花は盛りをゆるる

須崎の町をしばらく歩みきて潮の香たかき磯にいでたり

内海の春はおだしき陽のひかり友らはしゃぐ小舟のなかに

土佐の山のみどりにぬるる春の日を午後は別れゆく眼にしみてみる

棚畑の麦の黄ばめる四国路をあわれと嘆きし人もすぎしか

水張田のつづく広田は靄ごもり日の暈くらく逢ふ日を知らず

建てられし石ぶみのこと高知までかへりきて夜床にひとりむせびぬ

広田く手は泥水にぬれそぼち蓮華咲きたりなごりのごとく

めぐる山々青葉若葉に照りかへりまぶしもよけふのわが顔に明る

栴檀の花咲く土佐の明るさを恥ぢつつゆかむ旅は思はざりし

むらさきの栴檀の花咲くけふをわれに二つなき日とさだめられたり

かくばかり恋ひやまざりしふるさとの野山寂しくけふわが前に

碑にむけば鳴咽とならむよそよそとみづならの樹を見てゐたりけり

なにげなくま向ふ友の眼をさけてみづならの光にこころはまどふ

わが歌の石ぶみにしるすうたごゑのつちの底なる母にひびけと

昭和29年慶応大学大学院に在学、国文学万葉集の研究を続けたが、30年5月4日急逝5月10日青山斎場で告別式が行なわれた。

法名  日光院殿朝誉志保妙相大姉。

北見志保子は天衣無縫で精力的な巾広い活動をしながら、その精神を貫くものは常に孤独であり、寂しさであり、どこか明治の匂いのする歌人であった。

「しかしその寂しさは、荒涼たる冬枯れの野の寂しさではなく、行く春を哀しむ寂しさであり、春愁というかそういう人のそこはかとない哀しみなのである。いつも人を恋い、その心に哭く沓として捉えることのできない、そういう哀しみを哀しんだ人であった。あの絶唱「平城山ならやま」は万葉の昔から生き志保子の詩心に宿り、そして永久に女人の心に息ずく哀感に違いない」と池田亀鑑氏はいっている。

「北 見志保子は歌人であると同時に歌曲の作詞者としてもすぐれた仕事を残し、日本中の声楽家の愛唱曲となっているものもある。ドイツから帰った奥田知恵子さん も各地のリサイタルでいつも「ナラヤーマ、ナラヤーマ」のアンコールでもちきりだったという。」と高知県出身の作曲家平井康三郎(保喜)氏はいっており、 志保子の一面を語るものである。(ちなみに土佐清水市清水中学校々歌は志保子作詞、平井康三郎作曲である。)

北 見志保子の作品は女人のもつ寂しさ、人間のもつ哀感によって貫かれており、まことに個性豊かな独自の境地に達していて、世上一般の批評よりも遥かに高いと ころに位置づけられるべきであり、短歌、短篇小説、随筆、作詞等に及ぶ巾広い活動はその才能の豊かさを物語るものである、殊に歌碑に残された

    山川よ野よあたたかきふるさとよこゑあげて泣かむ長かりしかな

や、平井康三郎作曲で一般に知られている

    人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき

などは平明で単純に聞こえながら実に深い内容をもったすぐれた作品であり、汲めどもつきぬ余情にみちた佳作である。

北見志保子の絶詠であり、彼女の最高の作品ともいわれている「永却の門」5首を記して北見志保子紹介の結びとしたい。

開かれし永却の門を入らむとし植ゑし緋桃をふと思ひたり

石門の扉に向きてためらひもなく入らむとして夢さめにけり

出づることなき永却の門にむきてゐて急ぎ歩みし今朝覚めて思ふ

灰色の扉ひらかれしはわが為と人なき門を入らむと急げり

朝庭に下りてみたれば緋桃の花は乱れをみせて過ざゆくところ

北見志保子の絶詠 歌碑に寄る北見志保子 北見志保子の筆跡 楽譜1 楽譜2
北見志保子の絶詠 歌碑に寄る北見志保子 北見志保子の筆跡 楽譜1 楽譜2

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