宿毛市立宿毛歴史館

岩村 通世

岩村 通世岩村 通世


宿毛小学校の標札

宿毛小学校は邑主伊賀家の日新舘の流れをくみ、明治5年の創立で、岩村両氏、林両氏等4名の大臣をはじめ、この100年間に数多くの偉人傑士を出している。先輩達はいづれも幼なかりしころ桜の花の一ぱい咲いていたこの校庭でたわむれ育ったもので、偉人を生んだことでは県内ではもちろん全国でもトップクラスを行く学校である。この学校の正門の「宿毛市立宿毛小学校」なる門標は元司法大臣正三位勲一等岩村通世の筆になるもので、朝な夕な1,000の児童はこの標札の前を登校し、又下校している。この標札を通世がしたためるについては次のような挿話がある。

昭和33年宿毛小学校は改築に着手したが、当時としては県内ではまだめづらしい鉄筋による永久校舎であった。建築後援会の人々ははり切って工事の進捗に協力したが、その時、歴史ある宿毛校を象徴する箇所をどこかに造りたいと云う案が持ち上った。そうしていろいろと頭をひねり合った結果、校門に偉人傑士の輩出を記念する意味の標札をつくる事に決定した。宿毛校を訪れる者はもとより、児童は朝な夕な1日に2回はその前を往復するわけだから精神教育からも一番よいだろうと云うことになったわけである。

さてその標札揮毫を依頼する人物の選定であるが、何分にも維新以来それぞれの分野での国家的人物が多く出ているし、現存しているそうした方も多いこととて、それぞれ推す人物が異なってまた一もめもめるかと思った人もあったのに、これは至極あっさり直ちに元司法大臣岩村通世氏に依頼することに一致した。不偏不党、公平無私、己を持すること謹厳、検事総長、司法大臣の大任を果した同窓の先輩に対して誰1人異議をさしはさむ余地がなかったわけである。そうして用務で上京した委員が氏の宅を訪問し、事情を述べて依頼したところ氏は
「記念碑や頌徳碑はこれ迄何十となく書か初てもらったが、学校教育の直接の材としての依頼は初めての事だ。母校の為になることなら、老骨で出来ることなら何なりとお引き受けする」と快よく引き受けてくれて出来上ったのが、この校門の標札である。


彼の生涯

岩村通世は、男爵元農商務大臣岩村通俊の五男として、明治16年(1882)8月21日東京市神田区神保町で生れた。父通俊は当時司法大輔(現在の司法次官)であったが、彼が4才の時北海道初代長官に任せられて赴任したので、彼も幼時を札幌幼稚園児として過している。明治22年には父は農商務大臣となり、引き続いて貴族院議員に勅選され東京の地に住んだが、彼は父母のもとを離れて郷里宿毛に帰され、宿毛小学校で勉学にいそしんでいる。そうして明治26年3月15日同校を卒業すると、高知市の高知県立第一中学校(現在の県立追手前高校の前身)に入学、明治35年3月に同校を卒業しているが、こうして彼の多感な少年時代、青年時代前期を宿毛を生活の本拠として暮しているので知己も多いし、晩年彼が郷土宿毛に寄せる人並ならぬ親愛の情を持ったのもこのためと考えられる。

やがて彼は、岡山の第六高等学校を経て、明治43年3月東京帝国大学独法科を卒業とともに司法官試補に任ぜられ、甲府地方裁判所に赴任し、彼が生涯の仕事とした司法官の生活が始まった。

昭和19年彼が司法大臣を退任する迄の35年間の司法官生活において、彼はこの甲府生活2年同と、昭和6年より9年迄の3年間名古屋地方裁判所検事区で、名古屋生活をした以外の30年間はすべて東京において、しかもその大半は司法省の要職を歴任し、エリートコースをまっしぐらに歩んでいる。

昭和15年58才で検事総長、越えて16年7月に第3次近衛内閣の成立に当って、司法大臣の大命を拝受、内閣は近衛より東条へと引き継がれたが、彼はのぞまれてそのまま留任し、19年7月東条内閣瓦壊と共に引退して、長かった司法官生活に別れをつげている。又その間においては大正13年には陪審制度の研究のため、欧米に出張を命ぜられて当時日本の裁判制度に劃期的な問題をなげかけたこの制度実施に重要な役割を果している。

昭和20年終戦の年の9月、彼はA級戦犯容疑として連合国最高司令官の指令により、突然逮捕せられ横浜刑務所に収容された。そうして大森収容所に転送され、最後は巣鴨刑務所に移された。それより満3年間、齢すでに60才を越した彼にとっては囹圄の苦しみは肉体的には相当にこたえたものと思われる。晩年彼は「禅問答百話」なる著書を発刊しているが、平素より精神修養を処生の一義としていた彼が、この3年間の幽囚の生活において、更に禅的修養を高めた結果のあらわれであると考える。

国際裁判は厳正に容謝なく行なわれた。しかし大巨在任中はもとより彼の過去35年間の司法官生活中、公正、公平、一切の私心無くあくまでも厳正に国政に関与した彼を罰すべき何ものをも見出することが出来ず、すべての容疑は完全に晴れて昭和23年の暮、彼は無罪で釈放された。終戦より3年、世の変動の最も激しかったこの時期に、年の瀬迫り、クリスマスイブにざわめいている社会に突然出て来た彼は、茫然目を見張ったことと考える。


司法大臣時代の彼

昭和16年7月25日から19年7月22日迄の満3年間は彼が司法大臣に就任していた期間で、この3年間こそ、大東亜戦争突入より敗戦の止むなきに致る日本歴史を決定づける最も多難な時代であった。戦時態勢の確立、戦争突入、臨戦態勢、戦争遂行。更に敗戦必至の時代へとだんだんと移り変って行くこの社会を、秩序あるものにし、機能を働かすためには、法律の制定、変更が先行さるべきもので、この時代の司法大臣は平時とはくらべものにならない重大な責任と任務を持たされていたものと考える。早朝より深夜に及ぶ会議、更に徹夜の行動と、この間に荻窪の自邸に閑居静養する日は1日とても無かった。

以下彼が司法大臣時代に手がけた法律の主なものを列挙して見る。

  1. 言論、出版、集会、結社等の臨時取締令(16、12、19)
  2. 食糧管理法公布(17、2、21)
  3. 裁判所構成法戦時特令(17、2、24)
  4. 戦時民法特別法(17、2、24)
  5. 戦時刑法特別法(17、2、24)
  6. 司法省の行政簡素化(17、9、10)
  7. 陪審法停止(18、4)
  8. 経済関係罰則調査委員会官制公布(19、2、10)
  9. 決戦非常措置要項決定(19、2、26)

等まことに多くの重大な法律が制度化されている。彼は身命をとしてこの大事業と取り組み戦争の完遂に努力したものである。


晩年の彼

彼が戦犯容疑が晴れて巣鴨刑務所を出所したのは、昭和23年の暮もおし迫った12月24日の朝であった。終戦とほとんど同時に収容された彼は、この3年間の街の変動にびっくりした事と考える。師走の雑踏に加えてクリスマスイブの騒々しさ。耳をろうするばかりの民主主義、自由主義云々の声、司法省は廃止されて法務庁と化している。全く浦島太郎のような心境ではなかったかと推察するものである。

その彼が巣鴨を出てわずか1週間、昭和24年1月1日付で東京家庭裁判所調停委員に任命されている。

正三位勲一等瑞宝章に輝く元司法大臣の彼が小さい家庭裁判所のしかも調停委員と云う小吏となった事について考えらされることが多い。しかも世は宿毛内閣と云われ、総理大臣は宿毛出身の吉田茂、副総理厚生大臣は彼の真の従弟林譲治の時代である。

無罪放免晴れて世に出た彼が、彼の前歴とこのうしろだてを以てすれば、いかなる顕職をものぞめる彼が一小吏に満足し、晩年を社会事業に邁進しょうとの決意にまったく頭の下る思いがする。彼はどこまでも名を求めず、苦しむ人々の味方として救世済民の道に余生をささげんと発念したものと考える。そうしてその後家庭裁判所参与員となり、あるいは戦争受刑者世話会常務理事、日本調停協会連合会理事長等、又東京弁護士会に加盟して恵まれない被告の援護をする等社会事業に一生を捧げている。

昭和40年3月13日、彼は83才の天寿をまっとうして静かにこの世を去った。

号を素竹と称し文も書も極めて巧みである。

岩村通世 岩村通世書
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