宿毛市立宿毛歴史館

吉田 茂

吉田 茂吉田 茂


まえがき

吉田茂は昭和21年5月、第1次吉田内閣を組織し、同29年第5次吉田内閣を総辞職するまで、前後7年2ケ月の長い間政権を担当して、戦後日本の政治に大さな足蹟を残した。即ち占領下の日本の内閣総理大臣として、よく困難に堪え、やがて交戦47ケ国との講和条約を締結して敗戦日本を再び、独立の昔に還した。壊滅から復興へと、この歴史的な重大使命を遂行した、近代日本最高の政治家である。昭和42年10月20日80才を以て逝去。戦後始めての国葬の礼を以て葬儀は執行された。

かかる偉人が郷土宿毛と最も深いゆかりを持つことは、我々のこの上もない喜びであり、又この上もない誇りと云わなければならない。

吉田茂については既に幾巻もの伝記類が刊行されて居り、1代の宰相はその人間的正面も、又側面も遺憾なく語りつくされている。しかも新聞や雑誌にもあます所なく発表されている。故にその詳細は総てこれらの印刷物にゆずることにし、ここでは氏の年譜をかかげ、その一部を説明することのみとどめたい。


年 譜

明治11年9月12日 誕生
 高知県幡多郡宿毛町、竹内綱の五男として、東京神田区駿河台に生まれた。(竹内綱の項参照)

明治14年8月4日 吉田家に入籍、時に3才
 吉田家はもと福井藩士、養父健三は長崎に留学、後イギリスに留学、帰朝後貿易商を営んで産をなした富豪家である。

明治20年 養父健三死亡、吉田家相続、9才

明治39年7月 東京帝国大学法学部政治科卒業。
 幼時藤沢の漢学塾に学び、ついで官立商学校(現在の一ッ橋商科大学)中退、学習院を経て帝大に進んだものである。

明治39年9月 領事官補に任ぜられ天津在勤

明治40年2月 奉天に勤務

明治41年11月 ロンドンに勤務

明治42年6月 牧野伸顕の長女雪子と結婚、時に茂30才

明治42年10月 イタリー在勤どなる。

明治45年6月 安東領事となる。
 在任4年、かっての華やかだった、欧州生活をはなれて満州の片田舎で領事生活をしていた時代である。当時岳父(妻雪子の父)牧野伸顕は外務大臣として外交界の最高の地位にあった時代で、これについて茂の次女麻生和子は父の思い出を次の様に語っている。
 「牧野の祖父が外務大臣をしている間じゅうは父は、忘れられたように、安東領事館のような田舎に置かれていたのも、いかにも祖父らしい、又それを苦にもせずに知らん顔をしてつとめていたのも父らしい」

 この一語は確かに吉田茂の性格の一面を語っているものと思う。

大正6年7月 外務省文書課長心得となる。
 大正5年12月にワシントンに勤務が内定されたが、赴任直前に取り消しとなった。それは安東時代に時の内閣の対支政策に反対運動を起そうとしたことがバレたためで、ごたごたのあと文書課長心得に落ちついたと言われている。善と信じないことには、徹底的に反ぱくするイゴッソーの面影が、若きこの当時から既に頭をもたげているのも面白い。

大正8年2月 第1次世界大戦講和会議委員の随員となり巴里に赴く。
 この随員としての経験が三十余年後、ワシントンでの第2次世界大戦首席全権としての茂に極めて大きく役立ったものと思われる。これについて彼は「長い外務省生活で自分から猟官運動をやったのは、パリ講和条約の全権随員と浜口内閣の外務次官の2度だけだ。」と云っている。自分から進んで随員を引き受けたことにくしき因縁さえ感ずるものである。

大正9年5月 英国在勤となる。

大正14年10月 奉天総領事となる。

昭和3年7月 浜口内閣、弊原外相の外務次官となる。

昭和5年12月 駐イタリー大使
 イタリー大使時代の彼はムッソリニーとはあまりうまく行ていなかった。
 「父は軍事的な人とか、何でも彼でも頭から押えようとする人はきらいである。思想のあわない人と仕事の出来ないいらだたしさをまぎらわすためか、イタリーにいた間は、すみからすみまで、自動車で遊び歩いた・・・・」
 彼の麻生和子さんが右のように述べているのを見ても、生れつきの自由主義者の彼と、独裁者ムッソリニーでは肌合いがあわなかったことは事実であろう。そのためか昭和7年11月待命となり帰朝している。

昭和11年4月 駐イギリス大使となる。
 茂のイギリス大使時代に日独伊防共協定が結ばれた。この協定締結について、大使館付武官を通じて軍部より強力に、吉田大使の同意を求めて来たが、彼は徹頭徹尾これに反対し、理路整然とその不締結を要求したがついに入れられず、3国協定は締結され、やがて日本を破滅に追い込んでしまったものである。そしてこれに反対した彼は遂に軍部の反感と圧迫により、昭和14年3月駐英大使の職を追われて、退職帰国の止むなきに至った。

昭和20年4月 憲兵隊に拘置さる。

 退職帰国した茂は悠々と大磯の自邸に閑居する身となったが、しかし窮迫した世情は、彼の自適を許さなかった。即ち支那事変はやがて大東亜戦争となり、勇ましかった旗色も次第にあせて、戦局は日を追うにつれて悪化、ついに本土決戦にまで追いつめられてしまった。この間彼は元首相近衛文麿公や木戸内府と互に連絡をとって、戦争終結への懸命の努力を続けたが、この事を知った軍部は彼を危険人物として絶えずその身辺に目を走らせ、特高や憲兵が常に彼につきまとうように成った。そうして、昭和20年4月ついに九段の憲兵隊本部へ召喚されたのである。

 「九段の憲兵隊本部へは2週間位いたかな。それから代々木の陸軍監獄に移された。近衛さんの内奏文をこしらえたのは私だと云うことで、しきりに責められたが、私が書いたわけじゃなかったから、知らぬ存ぜぬで通した。」とは、その当時の模様を後に彼自身が語った話。5月25日の東京大空襲では火の手はこの監獄にせまって来たため、憲兵に助け出されて、代々木の練兵場で一夜を明かし目黒の刑務所に移された。そうして四十余日間の尋問に堪えて6月仮釈放された。

 後年彼は「君は牢屋に入ったことがあるかね?1度ははいっていいところだよ」と時々友人達に語って笑うことがあったと聞くが、負け惜しみの強い彼にとって獄中生活は辛かったよりしゃくにさわったに違いなく最も苦しい時代だったと云える。

昭和20年9月17日 東久邇内閣の外務大臣となり、同年10月の政変(弊原内閣誕生)にも引続いて外務大臣拝命。
 自由主義者であり、この大戦に批判的であった彼が、終戦後直ちに招かれて外務大臣の要職に就いた事はけだし当を得たものであり、これが戦後の彼が政治の本舞台に躍り出た最初である。然し、被占領国の当時の外務大臣は占領軍、司令部との折衝連絡が唯一の外交活動で司令部の役人達に、いつも頭を下げて恐れ入っていなければならないこの仕事は、彼にとってはまったくつらい仕事であった、と考える。当時の食糧危機は言語に絶し100万人の餓死者は避けられないと云われたものを、彼の持前の粘り強さと優れた交渉により、ついにマッカーサーをして、70万トンの占領軍食糧を放出せしめて危機を脱したことは、国民挙げて彼に感謝をしなければならない。

昭和21年5月 第1次吉田内閣生まれる。
 この年4月総選挙の結果鳩山一郎の率いる日本自由党は第1党をかち得た矢先、党主鳩川一郎は追放と決定、首の無い第1党の出現と云うまことにおかしな事になってしまった。そこで鳩山一郎の依頼により総裁受諾、大命降下に及び5月22日組閣完了第1次吉田内閣が成立した。郷土の先輩林譲治はこの内閣の書記官長を拝命している。なお党主受諾の際鳩山との条件に次の3つを彼は申し出て約束させている。
  1、私は党の金の事については一切知らない。
  1、人事については一切わたしにまかせる。
  1、やめたくなったらいつでもやめる。

 彼の面目躍如たるもので、これが彼をして7年余の長年月内閣主班たる彼の政治的生命を支え得た原因と考える。

昭和21年10月 新憲法を可決し、11月3日これを公布し、日本はここに改めて生れかわった日本となった。

昭和22年5月 第1次吉田内閣総辞職。
 この年4月衆議院は新制度による初の総選挙があった。吉田茂は高知県全県1区から出馬し、始めての衆議院議員に当選した。彼は東京に生れ県外生活、国外生活と、父祖の郷土宿毛とは極めて疎遠であったが、しかし宿毛の持つ人情美、土佐人の持つ人間愛にほだされて郷土高知県から立候補したと伝えられている。この時彼の率いる自由党は第2党に転落した。彼は権謀術策をきらい快よく第1党の社会党にバトンをわたして下野した。即ち片山社会党内閣が成立したのがこの年5月24日である。

昭和23年10月 第2次吉田内閣成立
 片山内閣は僅か8ケ月余にて倒れ、引き継いだ芦田内閣がまた7ケ月の短命で終り、再び吉田内閣の成立を見た。しかし自由党はこの時少数与党であり、いわば選挙管理内閣である。そのためこの年の12月に解散し、あけて1月の総選挙には、再び高知より出馬して当選、自由党は264名を獲得して第1党となった。

昭和24年2月 第3次吉田内閣成立
 総選挙により第1党となった自由党はここに第3次吉田内閣を誕生させた。この内閣は爾後3年8ケ月余り続き、吉田内閣が最も安定し成熟した時代である。即ち昭和26年9月に行なわれた朝日新聞の世論調査では内閣支持率58%の高率を示したことでもその一端がうかがわれる。しかしながら当時の世想はいまだ戦後の混乱期を抜けきらず、下山事件、三鷹事件、松川事件等世を騒がした事件が引続いて発生すると共に、政党は離合集散を重ね、外では朝鮮戦争の勃発等世の中はまことに騒然としていた。その中での講和条約の締結と日米安保条約の締結は、けだし吉田内閣の最大の課題でこれの功罪については、後代の歴史が之を決定することであるが、とにかく、彼が畢生の智能をしぼって、これに当り、この結末を彼自身でつけた事に対して、彼は快心の喜びを覚えたことにちがいない。

昭和27年10月 第4次吉田内閣成立
 昭和、27年8月彼は突如衆議院を解散した。世に之を「抜き打ち解散」と云う。之は自由党内に生じかけている反吉田の勢力を一掃せんために打った手であると云われる。そうして彼の持つ主導権の確立をめざしたものであった。これより先に追放されていた鳩山一郎は前年6月にこれを解除され、またかねての病気も次第に快方にむかうにつれ、かねて親交のあった人物達が相はかって之を擁して反主流に立ち、政権を鳩山に渡そうとして事をかまえたものである。したがってこの選挙運動中の両派のやりとりはまことにすさまじいものであったが、自由党は240の議席を得て第4次内閣を成立させた。

昭和28年5月 第5次吉田内閣成立
 第4次内閣成立後も党内紛争は益々紛糾をきわめた。農相広川弘禅は党内野党「同志クラブ」を結成し、鳩山支持者も亦、「鳩山派自由党」を結成した。こうした中での衆議院本会議で、右派社会党の西村栄一議員(現在の民主社会党主)に対して吉田ははからずも「バカヤロー」と暴言を吐き、首相に対して前代末聞の懲罰動議が発せられ、ついに内閣不信任案が可決されたものである。そこで世上「バカヤロー解散」と云われる解散が行なわれ、28年4月、総選挙の結果は、又も第1党は得たが199名で過半数は得ず、彼は第2党改進党の協力を要請、5月21日第5次吉田内閣を成立させた。

昭和29年12月 吉田内閣総辞職、前後7年2ケ月の吉田政権終末をつげる。
 混迷を続ける政界はその後も収まらず鳩山派は改進党と合同「日本民主党」を結成し、鳩山一郎総裁、副総裁重光葵が就任したのは29年11月である。これより先9月に彼は欧米視察の旅に出た。米、仏、西独、伊、英を訪問し、内容的には幾多の収獲を得て帰国したが、その間に国内では吉田打倒の計画が着々と進んでいたものである。そうしてこの新党を軸にして左右社会党の3派による内閣不信任案が12月国会に提出された。彼は再び解散して信を国民に問うことを止め、ここに潔く退陣を決意し、内閣を投げ出したものである。と共に自由党総裁をも辞任してまったくの一党員となった。

昭和42年10月20日
 その後の彼は32年、33年、35年と3度高知県より衆議院議員に立候補して、3度とも悠々と当選している。がしかし彼はその後はあまり議会にも出ず、大磯の私邸で悠々自適の生活をおくっている。と云っても決して無為に送る日は1日も無く、毎日のように内外の有名人の来訪を受け、彼の及ぽす政治上の影響力はまことに隠然たるものがあった。殊に池田勇人、佐藤栄作等、彼の直系の首相が相継いで登場したので、彼は単なる隠居の境涯では無く、その一挙手一投足は直接国勢に影響を及ぼしていたといわれている。かの有名な吉田書翰が、彼の死後もなお日中間に度々間題を引き起している事等は有弁にこれを物語っている。

 昭和42年10月20日、彼は89才の天寿をまっとうして遂にここ大磯の私邸において波乱に満ちた一生を終えた。彼は素涯そわと号し、多くの揮毫を残している。素涯とは彼の姓名のローマ字綴りの頭文字S、Yをもじったものである。

 この年譜をつくる為、幾つかの文献に目を通して来たが、どの文献でも感ずることは、吉田茂その人はまつたく信念に生きた偉人と云うことである。

 日独伊3国防共協定には身体を張って、彼は反対した。当時の絶大な軍部の圧力に抵抗して、あれだけ斗った人は外には見当らない。彼はそのため駐英大使の職を失なつている。

 又戦争となると、到底勝ち目のない戦争には終始反対し続け、和平工作を練り続けた。そのため彼は投獄され、あのはげしい空襲下陸軍監獄に叩き込まれて四十余日の獄中生活をおくっている。

 吉田茂は7年余の長きにわたって政権を担当した。占領軍の圧力下における彼は、常に日本の独立と復興を念頭に置いて粘り続けた。戦争に敗けても外交で勝てば国は隆昌する。之が彼の信念であった。敗戦国の首相が絶対の権力を持った占領軍の総司令官を相手に斗い続けた。そうして彼は独立をかち取り、復興へのたくましい足取りを歩み続けた。

 占領が終り独立国となると、国内は百家鳴争一時に飾やかな交響楽を奏で始めた。革新勢力はもとより、自由党内にも反吉田の旗幟をかかげて政権奮取をこころみる者が生じて来た。しかし彼は自分以外にこの日本の復興と発展を委すべき何人も居ないと云う大きな確信のもとに粘り続けた。まったく信念に生ききった人である。離合集散常なく、利によって集る政治家の多いこの時代において、彼こそよく節操を守り信念に生き抜いた偉大なる人物であったとつくづく感銘したことであった。

吉田 茂 吉田茂書
吉田 茂 吉田茂書

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