宿毛市立宿毛歴史館

宿毛の史跡その6

押ノ川の一里塚

押ノ川の一里塚 江戸時代のはじめ頃、幕府の命により土佐の主要街道にも、一里毎に塚が築かれ、えのきや松などが植えられ、旅の目やすとなり休み場所となりました。
土佐の各地にあった一里塚も、現在ではほとんどこわされ跡形もなくなっていますが、ここには経塔もあった関係か、よく保存され現在に至っています。


39番札所延光寺

39番札所延光寺 宿毛市平田町中山にあり、赤亀山寺山院延光寺といい、四国八十八ヶ所三十九番札所になっています。
真言宗寺院で、神亀元年僧行基が開基し、はじめは鶴亀山施薬院宝光寺でしたが、僧空海が再興するときに赤亀山寺山延光寺に改めたとされています。
またこの寺には延喜11年のものである銅鐘(国指定重要文化財)がのこっています。この鐘の由来については、一匹の赤亀が小さな鐘を背負って海中からこの寺山にはい上がって来たと言われていて、これにちなんで山号を赤亀山としたという伝承がのこっています。


一条房家の墓

一条房家の墓 一条家は京都五摂政家の名門でしたが、教房の時に応仁の乱によって焼け野原になった京都をあとにして、荘園としてもっていた土佐中村にやってきました。
この教房の第二子で中村で生れた房家を初代として、房冬、房基、兼定、内政の五代を、一般に土佐一条氏と呼んでいます。
なかでも房家の時代はいわゆる公卿大名として戦国の世に臨み、もっとも栄えた時期でした。
房家の墓がある宿毛市平田町にある藤林寺は、彼が菩提寺として建てたものです。


お雪の供養塔

お雪の供養塔 「土佐物語」に、応仁の乱をのがれて土佐の中村にやって来た公家一条氏の四代兼定は、鷹狩の時にみそめた百姓の娘お雪のもとに入り浸り、政を疎かにしたので結局家老たちによって中村の御所に閉じ込められ、隠居を強制されてしまい、そのことを知ったお雪は川の淵へ身を投じてしまった、と記されています。
現在では、この身を投じたとされる川の淵は水田となっていて、その中に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を刻んだ供養塔が建っており、土地の人は「御前が碆」とよんでいます。
土佐一条氏は長宗我部氏の策略のなか、この後ついに領地を奪われてしまいます。


浜田の泊屋

浜田の泊屋 幕末から明治にかけて、幡多地区の各部落では泊り屋を建てて若い衆が宿泊する風習がありました。 幡多地区の泊り屋(やぐら とも言った)は、すべて高床式の独立家屋で、百数十ヵ所も設置されていました。
これらの泊り屋も明治末期から大正にかけて平屋建の公会堂に建てかえられたり、破壊されたりして、現在では、この芳奈部落に四つの泊り屋が残っています。
浜田の泊り屋は、桁行二間、梁間二間、木造高床式平屋建入母屋造り桟瓦ぶきで、栗の自然木を四隅の柱に使った最も風格のある建物です。


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