宿毛市史【古代編-幡多五郷】

幡多五郷

大化の改新(645)によって公地公民制が打ち出され、中央の行政組織が確立され、地方にも改革の波が及んできたのである。これまでの国造制に代わって国郡制がしかれ、土佐国も中央から派遣された国司によって、治められるようになった。
改新の政治機構は、中央に神祇官・太政官を置き、地方には国・こおり・里の行政区画を設け国司は4年の任期で中央より派遣したのである。里長さとおさは住民の中から選任されたようである。里は元正天皇の霊亀元年(715)に至って郷と改められた。更に、郷の下に里を置くようになり、三里前後をもって1郷としたようである。
土佐は初め、律令制定当時は、幡多・吾川・土佐・安芸の4郡であったが、仁明帝の承和8年(841)に「高岡は吾川を分て建てられ」(『続日本後紀』)とあるように、高岡の1郡が新設されている。長岡と香美郡の新設時期については『土佐幽考』によると宝亀と延喜の間とされている。
天平15年(743)6月、引田朝臣ひきたのあそん虫麻呂が土佐守になったと『続日本紀』にある。これが土佐国司任命のうち姓名が明らかになっている初めである。
大化当時の里(のちの郷)については、事情はわからないが、承平年中(931〜938)に作られたといわれる『倭名類聚抄』によると、土佐7郡で、郷名43が記載されている。そのなかから幡多郡には、つぎの5つの郷があったことがわかる。(平安初期)
大方郷・鯨野郷・山田郷・枚田ひらた郷・宇和郷で、今その区域を考察してみると、次のようではなかったかと思われる。
大方郷今でも「大方」という地名があることから、大方町を中心として、中村付近までというみかたと、大方町を中心とした幡東一帯(佐賀町を含めて)というみかたがある。
鯨野いさの足摺岬に伊佐という地名があることから、現在の土佐清水市伊佐を中心とする、土佐清水市一帯の地域であったと想像される。
山田郷現在の宿毛市山奈町山田を中心とし、四万十川に至る中筋川沿岸一帯と思われる。現在も山田の地名が残っていることから、この郷の中心が山田であったものと考えてよいであろう。
枚田ひらた現在の宿毛市平田を中心に、宿毛・小筑紫にかけての地域であったと考えられる。現在も平田の地名が残っており、この郷の中心が平田であったものと考えてよかろう。郷内には、延喜式内社高知坐たかちにます神社がある。(『倭名抄』には、「牧田」とあるが、「牧」は「枚」の誤りであろう。)
宇和郷愛媛県南宇和郡一帯という説と、旧中村町全域(中村、不破、右山、角崎)と、後川を隔てた対岸一帯とみる説とがあり、今のところはっきりされていない。

当時の郷は、人家50戸をもって一郷とした。上山、下山郷等の北幡一帯は、まだこの時分には郷の中に入ってなかったようである。北幡が上山郷、下山郷となるのはずっと後世である。人家50戸に満たなかったのか、あるいは調査できなかったのか、それとも、他の郷の中に含まれていたのか、その点は不明である。
とにかく、奈良時代末から平安の初期にかけて、幡多郡に5つの郷があり、人家250戸以上あったことが、ほぽ見当がつくのである。
郷内の村名と人口については史料が見当たらないので全く不明であるが、国史によると、大化改新(646)の里制で50戸をもって一里と定めたが、霊亀元年(715)に、これを郷里制に改めて、里(50戸)を郷とし、その下に3個くらいの里を置いた。しかし、天平11年(739)郷里制が廃止されてからは、里はしだいに用いなくなり、郷の下に村が付くようになったようである。
一郷(50戸)のうち、1戸すなわち、郷戸のなかに幾組みもの房戸(世帯)が含まれており、1戸当たりの人口は、2、30人が普通であったようだから、前記の郷区分によって考えてみると、枚田郷全域と山田郷の一部を含む現在の宿毛市には、60戸以上の戸数があったと考えられ、1,500人程の人が住居していたことが想像される。