宿毛市史【古代編-平安時代の宿毛-】

藤原純友の乱

日吉神社(仲須賀)
日吉神社(仲須賀)
延長8年(930)から承平4年(934)まで第47代目の土佐国司であった紀貫之が、帰京の際記した『土佐日記』のなかに「卅日。雨風吹かず。海賊は夜ありきせざるなりと聞きて、夜なかばかりに舟をいだして、阿波の水門を渡る。夜なかなれぱ、西東も見えず、男女からく神仏を祈りてこの水門を渡りぬ。」とある。
貫之が土佐守の任を終える頃の承平3年から同4年頃、山陽、南海両道にかけて海賊が横行した。承平3年12月には「南海道国々海賊未従追捕遍満云々」(『扶桑略記』)といっており、同4年5月には「詔奉俸幣使於山陽南海道諸神。祈海賊。」(『日本紀略』)といって、海賊の平定を祈っている。
貫之は土佐国司の時、海賊の平伏を祈って、宿毛市宿毛仲須賀にある日吉神社(もと山王の宮)に、正一位大山咋命と記した幟を寄進したと、次のように社伝に記してある。「宿毛郷宿毛村山王田鎮座、日吉神社、祭神大山咋命−幡多開闢の始め幡多総鎮守として大山咋命を奉斎す。延長、承平の頃、紀貫之土佐守たりし時、尤当社を信仰し志願賽礼の節、正一位大山咋命と記せし幟を寄進すると云。…略…」
宿毛は、土佐の国府とも遠く西に離れ、西方は豊後水道を経て、瀬戸内海に通じていたので、この海域を舞台とする海賊にとっては、絶好の隠れ場所となったと思われる。
さて、このような海賊の騒擾は、承平6年(936)6月には「南海道賊船千余艘浮於海上。強取官物。殺害人命。仍上下往来人物不通」(『扶桑略記』)という状態となり、南海道の沿岸に海賊がはびこり、沿岸の村々は非常に困っていた。これを知った朝廷ではたまりかねて、紀淑人きのとしんどを伊予掾として海賊を取締まらせた。藤原純友は、伊千檬であったので、紀淑人を助けて討伐にあたり、海賊は降伏したのである。
ところが、純友は任期が満ちても帰ろうとせず、手下の海賊どもと宇和島港外にある日振島に根拠地をつくってしまったのである。ちょうどこの頃、平将門が関東に兵を挙げたので、純友はこれに応じようとして、ひそかに部下を京都に遣わして放火させた。
天慶2年(939)朝廷では純友を諭し、従五位下の位を授けたが、純友はこの官位をはね付け、ますます海辺を荒しまわった。讃岐守藤原国風が純友を攻めたが、国風はかえって阿波に追われ、純友は讃岐の国府を焼き、伊予や讃岐、更に山陽道や幡多郡を焼いた。「天慶3年(940)12月藤原純友土佐国二入テ幡多郡ヲ焼ク、戦争ノ際官軍並二賊類箭二中テ死者多シ」(『日本紀略』)とある。
純友が幡多を焼いたのは高岡郡日下別府城主別府新九郎が加勢した(『土佐国編年紀事略』)とあり、小筑紫方面の伝承によれば、小筑紫湾に上陸し(伊与野)、南方及び東方を攻め、村々を焼き払った(天慶3年12月)といわれている。このような、海賊の横行は、律令国家の厳しい収奪に対する民衆の抵抗の一面を現わしているという見方もある。
朝廷では、小野好古を追討使長官として戦艦200余りをもって、日振島を襲おうとした。純友は1500余りの船を並べて待っていたが、純友の部将藤原恒利が寝返りをうち、純友の本拠に朝廷軍を案内して攻めたので、純友は敗れて九州の太宰府に逃れた。純友はここで勢いを盛り返したが、小野好古は陸路より、藤原慶辛等は海上から純友軍を博多に攻めた。この博多湾大合戦で、純友の本隊はほとんど壊滅の状態に陥った。800余りの船を奪われた純友は、その子重太丸と共に辛じて伊予国に逃げ帰ったが、6月中旬警固使橘遠保に捕われ、6月29日獄中で死んだ。『日本紀略』によれば、遠保が純友を殺害したとあり、『大日本史』には、斬られて首を京都に送られたとなっている。
こうして純友らは討伐されたが、その残党や伊予来島などの海賊は、これから室町時代に至るまで、長くこの地方の海域を横行して、幡多郡沿岸も、しばしば彼等の侵害を受けたことが伝えられている。だが、中世の海賊はみだりに掠奪を目的とするものばかりではなく、彼等によって、この地方の村落は、ある程度の治安が保たれ、また、海上交通の便が与えられていたことは見逃せない。
純友は伊予を逃げる時、その妻を土佐国松尾坂(伊予土佐の国境)の純友城に隠したが、純友以下一族残らず討たれ、その子重太丸も京都で斬られたとの報告を聞いた妻は、悲しみの挙句ついに気が狂い、天慶4年(941)8月16日に死んだと『前太平記巻11』に次のように記されている。
「ここに栗山将監入道定阿という者あり、これは伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去ぬる承平の頃、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立退き、土佐国松尾坂と云所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ重太丸も縲紲の辱に逢うて京都にて誅せられぬと聞しより彼母恩愛の悲歎に堪えず、慟哭のあまりにや物狂はしくなりて巫医の功を尽すと云へども更に験もなく今年(天慶4年)8月16日に思死にぞ失にけり」
このように、純友の乱や将門の乱はあっけなく終わったが、この事件は歴史の上で大きな影響を与えた。すなわち武士というものが新しく歴史の上に現われるようになり、貴族では乱を鎮めることができず、武士達もようやく自分の力に自信をもってきたことを物語っているようである。

松尾坂の純友城跡
純友城跡(大深浦城ヶ山)
純友城跡
(大深浦城ヶ山)
県境松尾峠の南西にあたる宿毛市大深浦字城ヶ山を純友城と呼んでいる。
松尾坂の峠に2個の石柱が立ち「従是東土佐国」「従是西伊予国宇和島藩支配地」の文字が刻まれているのが見える。この標柱の南西、谷を隔てて約200メートルの所に2つの嶺が続いた山がある。この山頂の南側の嶺が純友城跡である。ちょうど宇須々木港の背後にあたる。土地の人々は「シロトコ」と呼んでおり、前方は宿毛湾を一望に見下ろせる位置にあり、しかも傾斜は極めて急で、外部からは容易に発見できない所で、文字通りの要害堅固の地で、逃げこもる山城としては申し分のない所である。
城跡には1アール位の平地が3か所段々になっており、その回りには石垣の跡が所所に残っているのが見られる。頂上付近には、石を70糎4方の四角形に置いた所や、大小の石を積み重ねた所もあり、墓石かとも思われるが確認はできない。墓石だとすると、これらのうちに純友の妻の墓があるのかもしれない。
現在、この城跡には国土地理院の三角点が在り、標高331.4メートルである。この位置に城を構えていたことから考えると、宿毛湾一帯は藤原純友の勢力範囲にあったのであろう。そして宇須々木港はこの地の根拠地にされていたものと考えられる。