宿毛市史【中世編-一条氏と宿毛-】

一条氏と幡多庄

中世の土佐国幡多は「幡多ノ庄」と呼ばれ、九条家から一条家に譲られた荘園であった。平氏の滅亡後、幡多郡は鎌倉幕府に収められたが、後、左大臣九条道家に与えられた。
幡多ノ庄が九条家の荘園として成立した年代は明らかではないが、鎌倉初期の建永元年(1206)土佐国が、九条家の知行国になった以後であることは間違いあるまい。
承久元年(1219)1月、暗殺された3代将軍源実朝には嗣子がなかったので、執権北条義時は実朝の遠縁に当たる九条道家の子頼経(2才)を将軍の継嗣に迎えた。これによって、九条家と鎌倉幕府とは深いつながりをもつようになったのである。
九条道家の荘園となった幡多ノ庄は建長2年(1250)九条道家が、その第3子の一条実経(京一条家初代)引き継がせたのである。その時の記録として、九条道家の財産処分記がある。それによると、「新御領云云、土佐幡多郡本庄、大方庄、山田村、以南村、加納久礼別符云云」とある。(足摺崎金剛福寺に保存されている十数葉の文書には、本郷、大方郷、山田郷となっている)
本庄は重要地域のことで、現在の中村市の大部分とみなされる。大方庄は、大方町で佐賀町も含んでいたかも知れない。山田庄は、中村市と宿毛市の中筋川流域の地で、現在の宿毛市山奈町山田を中心とした地域であったと考えられる。山田庄内には、山田村、平田村、九樹村などの村々があったことは確認できるが、肝心の宿毛についての訴属が明らかでない。正安2年(1300)の文書には、具同村、敷地村、中村、平田村、山田村、宿毛村、磯川村、江村、仁井田が記されているが、庄名がないので宿毛付近は何庄に属していたかは不明であるが、宿毛には宿毛庄というのがあったかもしれない。
『南路志』によると宿毛庄(この頃は「庄」「郷」の使い方が厳密でなく、「庄」とも「郷」とも言っていたのであろう)の区域を宿毛郷、橋上郷、下山郷の地域としている。宿毛庄が播多庄の一部であったことは間違いなかろうが、前記の九条道家の財産処分記には記載されておらず、また、『和名抄』にみえる平安初期の枚田郷は、金剛福寺の古文書によると「前摂政家政所下。土佐国幡多山田郷内平田村、沙汰人百姓等可早任正嘉2年政所下文旨奉免金剛福寺供田内九樹名事。」とあり、山田郷内平田村となっている。
『南路志』をみると、中世の「宿毛庄」「山田郷」「奥内郷」の区域を次のように分けているのがみられる。

宿毛庄の区域
宿毛村 属坂下村 宿毛庄和田村 押川村 大島村 錦村 小深浦村 大深浦村 樺村 宇須々木村 藻津村 草木藪村 山北村 野地村 二宮村 中津村 平野村 奥奈路村 坂本村 橋上郷 神有村 京法村 還住藪村 楠山村 出井村 奥屋内村 玖木村 須崎村 大宮村 下家地村 中家地村 西ケ方村 江川村 半家村 川崎村 長生村 橘村 用井村 藤ノ川村 津ノ川村 茅生村 岩間村 中半村 口屋内村 鵜江村 窪川村 塩塚村 悪瀬々村 佐田村

山田郷の区域
山田郷山田村 横瀬村 有岡村 磯ノ川村 生ノ川村 荒川村 国見村 楠島村 江ノ村 上ノ土居村 九樹村 平田村 吉奈村 勝間村 高瀬村 手洗川村 入田村 具同村 森沢村 坂本村 山路村 実崎村 深木村 間崎村 津倉淵村 初崎村 狼内村 上長谷村 宮ノ川村 亀ノ川村 柚ノ木村 来栖野村 下長谷村 皆尾村 弘野村 下切村 石原村 (長宗我部地検帳には狼内村以下石原村までの区域は、三原村または三原郷としている)

奥内郷の区域
奥内郷弘見本村 沖ノ島弘瀬村 柏島村 一切村 天地村 橘浦村 泊浦村 鉾土村 春遠村 吉ノ沢村 榊村 添ノ川村 福良村 小尽村 湊浦村 田浦村 津賀野村 伊南野村(現伊与野) 呼崎村 内ノ浦村 外ノ浦村 小浦村

幡多郡は一条氏の荘園となってから幡多庄と呼ばれたが、庄内の郷村名はそのまま使用されたようである。ただ庄内に社寺領などのある場合のみ「大方郷浦国名」「以南村伊布利名」「具同村布賀木名」などと、名(小私有地)が使われている。しかし、これも中世末期になると、村が郷となったり、名が村に変わったり、あるいは、「宿毛与市名村」「宿毛唐人名村」などのように、名の下に村を付けて、1小村の単位としている所もある。これは、土豪の侵略によって崩れてゆく荘園制の一面を反映するものであろう。

『南路志』は近世末期に著したもので、中世末期に作られた長宗我部地検帳に記されている郷村名とは多少の相違がある。

以南庄は、土佐清水市であることが各種の資料によって大体の見当がつく。北幡に当たる庄名がないが、後には、この地も幡多庄に編入されているようである。ただここで意外に感じることは、高岡郡の久札が出作地(加納)として太政官の特別許可を受けて幡多庄に属していることである。
京都から遠く離れている幡多庄が領家に対してどれ程の経済的な役目を果たしたかは、よくわからないが、恐らく年貢も滞リがちではなかったかと思われる。
室町時代になって幕府の綱紀が緩み、地方豪族が武力を持って利権を張るようになると、武力を持たない寺社や公家の荘園は見る陰もなく彼等に侵略されていったのである。幡多庄についても、一条兼良(1402〜1481)は、その著『桃華蕊葉』で、この辺の状況について、次のように記している。
「土在国幡多郡に諸村々有り。当時知行の号有りと雖、有名無実なり。但し応仁の乱世以来、先の関白(教房)を下向せしめ今に庄有り。渇命を継ぐ者なり。……」と、あって知行の号ありといえども、有名無実なリと、嘆いたほどであった。また『土佐国記事』にも「一条殿の幡多郡に下り相伝ふ幡多は是れ一条家伝領之地応仁の乱後道梗して租税入らず故に教房卿を下す云云」とある。
なお、鎌倉時代の末期になるに従って、国政が乱れ、摂政家の威令も行き届かず、寺領や殺生禁断の区域も沙汰人(役人・荘官)や百姓などに侵されたことが、寺山延光寺や足摺岬金剛福寺の古文書にみえている。