宿毛市史【近世編-伊賀氏-宿毛領歴代領主】

宿毛領歴代領主

可氏書状 可氏夫婦の墓 東福院本堂
可氏書状 可氏夫婦の墓 東福院本堂
初代 可氏よしうじ
在職28年(1601〜1629)
元亀2年濃州北方に生まる。安東郷氏の三男、母は山内盛豊長女通、幼名藤太郎、左近、半左衛門、左衛門佐と改める。天正10年北方城で父に死別。母と共に竹中重門を頼る。天正13年一豊が長浜城主となると、母と共に呼ぴ寄せられ、以後山内氏と称す。慶長5年遠州掛川で千百石、慶長6年2月宿毛城主となり、同年8月19日六千石を賜う。慶長12年駿河、同14年丹波篠山、同15年名古屋、同18年中村、各城の普請役を勤む。元和元年、一国一城の制により宿毛城をこわし、同年大阪夏の陣には、藩主忠義出陣のため留守居役をつとめる。同2年家康死去の節、見舞の使者となり同5年福島正則、広島城改易の時、広島城接収のため出陣。寛永元年大阪城の普請役を仰せつけられる。寛永6年11月7日没。年59。法名南泉院龍谷雲清。東福寺西山に葬る。妻は津田太郎左衛門女。
2代 定氏さだうじ
在職17年(1629〜1646)
慶長5年遠州掛川に生まる。可氏の長男、幼名藤太郎、後に左衛門佐。元和5年広島城接収のため父と共に渡海、寛永7年11月父の跡目を継ぎ、同11年将軍家光上洛の時、瀬戸内海を通って上洛、正保2年家綱様御袴着の祝の使者として江戸へ行き家光公にお目にかかる。正保3年11月24日没。47才。法名は高林院鉄叟栄心。東福寺東山に葬る。妻は野々口丹波永由の女。
定氏書状 2代定氏夫婦の墓
定氏書状 2代定氏夫婦の墓
3代 節氏ときうじ
在職52年(1646〜1698)
寛永10年宿毛に生まる。定氏の長男。幼名藤太郎、のち左衛門佐、源蔵。寛永16年7才で人質として江戸へ行き、正保4年15才で家督を相続、承応元年帰国。明暦2年篠山国境争いに尽力、万治2年野中兼山の指揮により松田川改修工事を施行、宿毛総曲輪を築く。寛文4年兼山の遺族を預り、同12年郷士30騎を預る。元禄2年中村藩の改易騒動の鎮定に行き、元禄10年宿毛の町割りを実施、この他領内各村々の土木工事を施行、元禄11年7月22日没。年66。徳敷院達山清文と謚して東山に葬る。妻は山内下総豊吉の女寛。寛の墓は西山にある。
3代節氏の墓
3代節氏の墓
4代 倫氏ともうじ
在職11年(1698〜1709)
明暦3年宿毛に生る。節氏長男。母は山内豊吉女寛。幼名省太郎、のち半左衛門、蔵人と改める。元禄12年家督を相続、宝永2年清水浦へ琉球船が漂着の時高知より駆けつけて活躍。宝永4年大地震があり宿毛全滅、その復旧に苦慮しつつ宝永6年2月2日没。53才。高照院寛山鳳仁と謚して東山に葬る。妻は山内信勝の女、野々口永由の女、田辺林雪の女、山内吉明の女とかわる。
5代 晴氏はるうじ
在職15年(1709〜1724)
宝永元年高知生る。倫氏五男。母は妾大目氏、幼名岩千代のち右膳、靱負と改め諱を永氏・恒氏・晴氏と改める。兄4人が早世のため宝永6年、6才で家督を相続す。享保元年2月7日宿毛大火二百八戸全焼。享保9年江戸へ行く船中で発病し、同年9月24日大阪にて死亡。年21。艶容院堅嶽義巧と謚し東山に葬る。妻は山内監物弘佐の女。
6代 郷俊さととし
在職20年(1724〜1744)
宝永元年宿毛に生る。4代倫氏六男。幼名覚次郎、のち八十丞、半左衛門と改め諱を郷敏・孝氏・氏興・郷俊と改める。号を閑松亭いう。兄晴氏の遺子が幼少のため、享保9年猶子として家督を継ぎ、享保13年奉行職となる。同19年冬、財政窮乏のため奉行職を止めることを願い出たが許されなかった。しかし不作の場合に補米を下さることとなった。寛保3年病身のため奉行職を免ぜられ、補米も除かれた。藩主の不快を蒙り、寛保4年2月6日宿毛で蟄居を命ぜられた。寛延2年一月10日没。年46。了退院密泉雲蚊と謚し東山に葬る。
7代 氏篤うじあつ
在職42年(1744〜1786)
享保9年2月7日宿毛に生る。5代晴氏長男、母は山内弘佐女、幼名千之助、のち源蔵と改む。寛保4年2月6日養父郷俊が蟄居を命ぜられたので家督を相続、延享4年、領内の窮乏のため7年間補米をうけ奉行職を免ぜらる。宝暦5年奉行職となる。宝暦12年琉球船が漂着したので宿毛へ帰りその処置をした。この年和守神社を建立。天明元年病気のため奉行職を辞し、宿毛に帰る。天明6年病気のため隠居。同年8月高知の宿毛屋敷類焼。同年11月領民暴動が起る。天明7年6月4日没。年64。賢徳院義岳操明と謚し、東山に葬る。妻山内弘篤養女山内泰軒佐衛女。
琉球船大島へ漂着
琉球船大島へ漂着
8代 保氏やすうじ
在職16年(1786〜1802)
深尾芭実の三男として宝暦9年高知に生る。母は妾、幼名銀吾、のち掃部、九郎兵衛、兵衛と改める。諱は重明、次いで保氏。安永2年、7代氏篤の女、房を配して氏篤の養子となる。天明6年養父隠居のため家督をついで土佐藩奉行職となる。天明8年病気のため奉行職を免ぜられ宿毛に帰る。寛政元年には幕府の巡見使を宿毛に泊らせた。凶作が続き、寛政2年より毎年現米三百五十石、寛政5年よりは毎年四百石ずつの補米を受く。同10年よりは補米を年々六百石ずつ受けた。享和2年8月15日病気が重くなり、治之助に家督相続の願書を差出し、その日死亡(実は13日死亡)、年44。鳳松院雲岳宗龍と謚して東山に葬る。妻は房、この房には子なく宿毛山内氏の正統は断絶。
9代 氏睦うじむつ
在職9年(1802〜1811)
寛政4年宿毛に生る。保氏三男、母は妾加藤氏、幼名出見之助、のち治之助、源蔵と改める。享和2年10月26日11才で相続、享和3年宿毛の刀鍛治桑山助秀の刀を藩主に献上。文化5年には凶作が続いたためその後補米千石ずつ受けることになった。文化6年には異国船に対する警備計画をたて、文化8年6月藩主豊資の使者として江戸出向の途中で発病、6月19日急逝。(養子手続の都合で表面は21日死亡となっている)年20才、法名勇誠院忠巌賢光、江戸芝青松寺山内に埋め、遺髪を東福寺東山に葬る。
10代 氏固うじかた
在職45年(1811〜1856)
寛政9年宿毛に生る。保氏五男、母妾加藤氏、幼名鉄治、のち実馬、太郎左衛門と改める。文化8年兄の家督を相続、天保年中に宿毛に講授館を設立して学問の振興を計る。文政7年奉行職を命ぜらる。天保8年奉行職を免ぜられ、補米千石ずつをいただく。天保9年幕府巡見使宿毛へ止宿。この年また奉行職となり天保12年病気のため辞す。弘化2年藩主豊熈宿毛へ止宿、国境や異国船の事を油断するなの命を受く。弘化4年3度奉行職となり、嘉永元年6月27日、兼山の遺子たちの罪を許さる。嘉永2年には五百石の加増があり、嘉永7年の大地震の復旧に尽力するため奉行職を辞す。安政3年隠居、文久元年2月22日没。年65才。仙岳院仁ー固徳と謚して東山に葬る。妻は川内林高の女、のち山内左儀の女、さらに高辻式部権大輔俊長卿の女。
氏固の短冊
氏固の短冊
11代 氏理うじさと
在職13年(1856〜1869)
文化14年8月16日宿毛に生る。氏固長男。母は山内林高の女、幼名千之助のち左衛門佐、主馬と改め、明治2年伊賀藤太と氏名を変更。安政3年家督を相続。文久元年藩主豊範公の帰国の御礼に江戸へ出府、途中で父の死を聞くもそのまま出府、将軍家茂に御目見、木曽路中国路を通って帰る。文久4年奉行職を命ぜられ、元治元年これを辞す。明治元年戊辰の役に宿毛機勢隊を出兵させ、明治2年藩政改革に領地領民を返上して高知へ移住。明治4年東京へ移る。明治21年5月27日東京にて没。年72。法名を一瓢院平山自安といい青山墓地に葬る。のち昭和28年宿毛東山墓地に改葬。妻は山内容堂の姉遊稀。三男太郎左衛門氏成(明治2年伊賀陽太郎と改名)があとを継ぎ、そのあとは実子がないため山内勇の身氏廣に岩村通俊の4女北子を配して後嗣とした。その跡を三省が継いでいる。
伊賀氏理 伊賀氏理の月百首 伊賀氏理の雪百首
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