宿毛市史【近世編-伊賀氏-宿毛領歴代領主】

柏島守護

柏島は、宿毛湾の入口に当る海防の要地である。そのため長宗我部元親は依岡源兵衛を柏島城主として配備して西の守りを固めている。
山内氏入国後は、宿毛与力の筆頭、祖父江次郎兵衛が柏島千石を与之られて守護となったが1代で絶え、慶長19年(1614)からは、宿毛領主の子弟が、相ついで柏島守護となった。しかし、宝永6年(1709)安東沢織の時末期養子がかなわず断絶となり、その後は宿毛から在番役人が柏島に行って政治を行なった。その中には大江卓の父や、竹内綱の父などもある。
このように柏島守護は、ほとんど宿毛から出ており、本藩直属とはいえ、宿毛と極めて密接な関係があるので、以下各守護を簡単に述べてみたい。

初代 祖父江志摩
通称を次郎兵衛といい、山内一豊が幼少の頃尾州黒田城でその危難を助けた祖父江道印の子であるという。遠州掛川で一豊に四百石で抱えられ、一豊土佐入国後、慶長6年(1601)1月宿毛与力となって赴任し、同年6月柏島守護となり、知行千石となった。柏島で22年間生活し、元和9年(1623)68才で没した。島民は部落発展の基礎をつくった恩人として、毎年旧盆に志摩の墓前で志摩さん踊りを奉納してその徳を慕いつつ供養を行なっている。

2代 山内隼人氏綱
柏島の中腹に隼人はやとさんの墓といって大きな花崗岩の五輪塔があり、そのそばには釆女の墓もある。
隼人さんとは、宿毛の初代領主可氏の二男である。慶長18年、人質として江戸へ行ったのであるが、その翌年慶長19年に江戸在住のまま柏島守護となり、柏島千石の領主で本藩の中老格となった。寛永16年(1639)に帰国したが、柏島に17年在住し、明暦2年(1656)50才で病死した。

山内隼人の墓
山内隼人の墓

3代 山内釆女
隼人の長男で、慶安2年(1649)に柏島で生れた。母は妾である。7才で父に死別、明暦3年(1657)家督を相続したが、寛文7年(1667)故ありて自害。年18。御家中変義によると、釆女は柏島水主伊平の妻と密通し、発覚しそうになったので、伊平の妻つたに頼まれ、つたを殺した。そのため、宿毛より与力3名が釆女を召捕りに来た。釆女はひそかに生母をたずね、長文の遺書を托して柏島の巌頭で自刃したが、その遺書には無実の罪を訴え、伊賀家の処置を呪咀するところがあったので、釆女の死後も罪名を除かれず、墓に繩をかけて焼香も許さなかったという。嘉永2年(1849)にやっと罪が許され、石碑のしぱり繩ものけられたのである。

山内釆女の墓
山内釆女の墓

4代 安東松之助
宿毛3代領主節氏の二男で、寛文8年(1668)与力知行千石で柏島守護を命ぜられた。しかし9才の幼少であったため、叔父安東郷定(縫殿)が代勤、寛文12年(1672)13才で病死。

5代 安東郷定(縫殿)
宿毛2代領主定氏の二男で、寛文6年(1666)知行五百石で本藩の中老並組頭を命ぜられ、寛文8年(1668)安東松之助の代勤として柏島に赴任。松之助の死後、松之助の弟(節氏の五男)沢織を養子として郷定が柏島守護となり、本藩からの五百石を除き、宿毛より千石をもらった。しかし、元禄16年(1703)引退し、先知五百石で中老となり、宝永4年(1707)64才で病死した。

6代 安東沢織寿明
宿毛領主3代節氏の四男である。安東郷定の養子となり、養父引退後そのあとをついで柏島守護となったが、宝永6年(1709)27才で病死。末期養子がかなわず、ついに柏島安東家は断絶した。

宿毛領主と柏島守護との関係


    可        宿
   祖氏      可1毛
  柏父の      氏 領
  島江与      | 主
  一志力      | 
  代摩       |
   |   ------------------
   |   |       |
   志   山       定2
  柏摩  柏内       氏
  島   島隼       |
  二   三人       |
  代   代|       |
       |       |
       |       |
       山   ------------------
      柏内   |       |
      島釆   安       節3
      四女  柏東       氏
      代   島郷       |
          六定       |
          代‖       |
           ‖       |
           ‖   ----------------
           ‖   |   |  |
           ‖   安   安  倫4
               東   東  氏
           沢 <--沢  柏松
          柏織   織  島之
          島       五助
          七       代
          代
柏島在者役人
宿毛山内家からの柏島守護は隼人、釆女、松之助、郷定、沢織と5代で断絶したが、その後は在番役人が柏島の土居(殿町)で政治を行なっていた。『大内町史』によれぱ、「その在番役の判明するものを挙げれぱ浜田某(天明8年頃)、一円嘉平次(安政元年)、上村半蔵、西原某、斎原弘(大江卓の父、卓は柏島において出生した)、竹内万弥(後の綱、前総理吉田茂厳父)」とあるが、一円とか西原等の姓は、宿毛の家士の中にはないので、これらは本藩の方から派遣されたものであろう。斎原弘は大江卓の父で、『大江天也伝』には次のように出ている。
「弘化4年9月25日、大江卓は土佐の最南端の一小島柏島に生れ、嘉永6年、父の宿毛に帰るに従って宿毛に帰り、此地に成人した。」
『大内町史』の竹内万弥(綱)というのは間違いであろう。竹内綱の父、庄右衛門梅仙は柏島在番を命ぜられ一家をあげて柏島に赴任していたが、竹内綱だけは宿毛に残っていたことが『竹内綱自叙伝』であきらかである。すなわち、安政元年の大地震の記事の後に「余の邸宅も勿論全焼せしが、当時家君(父)は宿毛を距る八里余の、柏島と云う孤島に、異国船打払ひ守備役として家族を携へ在勤中にて、余のみ文武修行のため在宅せり」とある。
『大内町史』の竹内万弥(綱)というのは間違いであろう。竹内綱の父、庄右衛門梅仙は柏島在番を命ぜられ一家をあげて柏島に赴任していたが、竹内綱だけは宿毛に残っていたことが『竹内綱自叙伝』であきらかである。すなわち、安政元年の大地震の記事の後に「余の邸宅も勿論全焼せしが、当時家君(父)は宿毛を距る八里余の、柏島と云う孤島に、異国船打払ひ守備役として家族を携へ在勤中にて、余のみ文武修行のため在宅せり」とある。