宿毛市史【近世編-野中兼山と宿毛-】

宿毛に於ける兼山の事蹟

宿毛総曲輪そうくるわと河戸堰
宿毛総曲輪とは河戸堰から下流の松田川右岸と、中新田から貝塚に至る宿毛をとりまく堤防のことである。
この総曲輪と河戸堰は、ともに野中兼山の指導のもとに行われた工事で、現在でも宿毛の生命線となっているほどで、宿毛にとっては極めて重要なものである。もしもこの総曲輪が無かったならば、宿毛の町はどうなるであろうか。少しの洪水でも宿毛の町は水びたしとなり、すべてが流されてしまうにちがいない。大正9年の洪水で、この堤防が切れ、宿毛町内で死者40余名という大被害が出たことをみても、この総曲輪の重要性がわかるのである。
河戸堰からの用水は今も宿毛の町を通って町の用水となり、さらに西流して宿毛の水田をうるおしているのである。
さて、この総曲輪や河戸堰ができるまでの宿毛の状態はどうであったであろうか。宿毛平野は今でこそ一筋の松田川が南部に流れているにすぎないが、当時はこの本流のほかに古川、清水川、牛の瀬川の分流が宿毛平野の中を流れ、少しの洪水でもたちまち氾濫するという状態であったと思われる。
これらの分流を一つにまとめて荒瀬川に合流させ、宿毛平野の周りに大堤防を築いて、洪水から宿毛全域を防ぐようにしたのがこの宿毛総曲輪である。
この総曲輪並びに河戸の堰は、万治元年(1658)に完成したのであるが、それまでにもいろいろと準備がなされているのである。『清文公御一代記』の中で、関係のある所を出し、それを説明してみることとする。『清文公御一代記』とは宿毛3代の節氏の事蹟を記したものである。
一、承応3(1654)午年3月27日に宿毛井関の御見合御座候由承り候。
宿毛井関とは宿毛の水田に水を引くための井関である。河戸堰はそれより4年後に完成しているのでこの井関は河戸堰を築くための見合であるのか、それともそれまでにあった井関のことかよくわからない。御見合とは、節氏が検分されたのではなく、野中兼山か或はその指図で、誰かが検分されたのであろう。
一、同年(承応3年)のころ洪水に付、川戸こうど土居の内堤切れ申すべくと、急に危く候処、米入り申す俵を御蔵より御出させ、切れ申す所へ打ち込み、卒刻ふせぎ仰せ付けられ、堤切れ申す儀留め申し候。此の段忠豊様御聞き遊ばされ、御称美遊ばさる由、御伝承候。此事功共根に成候て、宿毛の総曲輪の堤出来仕と承り申し候。
川戸土居とは、宿毛山内家の邸である。ここの内堤が切れそうになったとき、米俵を積んで洪水を防いだのである。このことを3代藩主忠豊が聞いて非常に感心し、これがもとになって宿毛総曲輪ができるようになったのである。
一、同年(明暦2年)のころ、沖島へ小倉弥右衛門殿御越御帰りの節、野中伝右衛門殿(兼山)御指図にて、宿毛総曲輪の様子御見分、弥右衛門殿に一木権兵衛相添右総曲輪大堤の傍示御立の由承り候。
兼山の指図で、いよいよ宿毛総曲輪を築くことになり、くいを打ち立てたのである。小倉弥右衛門とは小倉三省のことで、一木権兵衛と共に兼山の片腕となって、諸工事を行なった人である。しかし小倉弥右衛門は、承応3年7月15日に死亡している(墓碑による)。そうするとこの記事の年は、明暦2年頃ではなく、承応2、3年頃で、米俵で堤防の切れるのを防いだ後の頃だと思ってよいのではなかろうか。とにかく小倉三省と一木権兵衛が、堤の位置を決めてくいを打っているのである。
一、万治元(1658)戊戌年、宿毛総曲輪の大堤並に大関、井流溝ゆるみぞ等幡多郡7万石の寄夫にて出来仕候由、其節御家中の侍共、村切に夫を受取り奉行仕候。
宿毛総曲輪並ぴに河戸堰ができたのは、万治元年であり、兼山の命で幡多郡七万石の全地域より人夫を集め、宿毛の侍達がその監督に当って工事を行なったのである。
この総曲輪は、宿毛字河戸上から同字廻り角までの延長2800メートル、幅員6〜10メートル、高さ4〜6メートルの大規模のものである。特に宿毛字河戸上から同字伊部までの間300メートルには、堤防と川岸との間に竹を植えて堤を補強し、同字新善寺から同字宗尾までの間900メートルには、松田川岸から180メートル後方の旧牛の瀬川岸に堤防を築いて、この間を洪水の緩衝地とした。さらに宿毛の安全を計るため、水勢を宿毛対岸の和田、坂ノ下地域にはねかえすようにした。宿毛側の護岸におこんばのはね(字東本城山東岸)渡場のはね(字伊部)堂の前のはね(字松右衛門屋敷)かぷとばね(字八反地)などのはねを設けた。はねというのは水勢をはねかえす突堤のことである。なおニノ宮対岸の古川口に水越堤防を設け宿毛対岸の和田、坂ノ下側の堤防を、宿毛より2〜3メートル低くして、洪水が氾濫した時は、先にこの堤防を越えさせ、和田、坂ノ下を水没させて水位を下げ、宿毛の安全を計るようにしたのである。そのためか、この工事以後、和田、坂ノ下両村の水害は絶えることがなかった。(竹村照馬『宿毛市史稿』)
このように和田、坂ノ下は宿毛の安全を計るための犠牲となってしまい、これが現在までもそのままに放置されている。藩政時代には領主の居る宿毛に抗議する事は許されなかったためか、和田の人々は高い台地に家を建てて住家そのものは水害をまぬがれるようにしたが、水田は年々被害を受けたのであった。和田の人々の中に兼山の悪口を云う人が居るが、300年間苦痛をうけた差別堤防に対する怒りの声であろう。
宿毛総曲輪を築く工事で、それまで宿毛を流れていた支流をせき止め、荒瀬川1本にまとめたのであるが、荒瀬川の川幅を広げ、岩盤を打ち砕いて水の流れを良くする工事は、なみたいていの苦労ではなかったにちがいない。伝承によると、兼山は、どんなに寒い日でも仕事を休まさず、工夫たちが、「寒いから休ませてくれ」といっても、「荒瀬の川が凍ったら休ませてやる」といったという。そのため工夫たちは、荒瀬の川が凍るのを願い、
  雪や降れ降れ、あられも降れ降れ、荒瀬の川が凍るまで
と絶望的な歌を口ずさびながらこの苦しい工事を続けたということである。この歌は後には
  雪やこんこ、あられやこんこ、荒瀬の川が凍るまで
となり、さらに最近まで
  雪やこんこ、あられやこんこ、荒瀬の川の垣の木に止まれやこんこ
と歌われていたという。
兼山の指図で行われたこの工事であるが、兼山が直接指揮したかどうかは分からない。兼山の部下の指図の良い点、悪い点すべてが兼山の名で語り伝えられているのかもしれない。
今まで兼山の荒瀬の工事は、坂ノ下溝の開さくの時と伝えられて来た。しかし、次にあげる資料によって、坂ノ下溝は兼山の構築ではないことが判明したのである。
沖須賀を流れる水路 宿毛総曲輪 宿毛総曲輪河戸の堰完成 宿毛総曲輪
沖須賀を流れる水路 宿毛総曲輪 宿毛総曲輪河戸の堰完成 宿毛総曲輪
一、延宝3(1675)乙卯年坂ノ下村の内田作用水の為、川戸大関より井溝仰せ付けられ出来仕り候。(『清文公御一代記』)
とあり、坂ノ下溝を、河戸の大関から引いてつくったのは延宝3年のことである。兼山は寛文3年(1663)に死亡しており、延宝3年は兼山の死後12年目に当たるのである。今までこの坂ノ下溝は兼山の仕事といわれ、「雪やこんこ」の歌と共に伝えられていたが、兼山死後の清文公(3代節氏)の工事である。坂ノ下溝は荒瀬の山すそを通ってはいるが、水中での工事は少しもなく、それほどの難工事でもない。それに引きかえ荒瀬川の岩盤を除ける拡張工事は、垣を作って水を止め、水をくみ出し、水に浸っての工事であったにちがいない。冬の寒い日など、仕事を休みたくなり、水が凍ればと願ったのも当然のことと思われる。
河戸堰は宿毛字河戸から和田字城ヶ下まで石畳で松田川をせき止め、水位を上げて宿毛側に井流口(水門)を二重に設け、水路を3方に分けて宿毛の水田二百町歩(200ヘクタール)に配水したものである。この水が町内を流れる時は洗たくや諸種の用水にも使われ、特に防火に果たした役割りも多かったようである。
3本の水路も伊賀邸前から東福寺前へ流れたもの、水道町を流れたもの、沖須賀を流れたものが共に現在も流れており、特に沖須賀を流れているものは宿毛水田の幹線用水路として、現在も重要な役割りを果たしている。
河戸の堰の長さは湾曲面で145メートル、幅は23メートルである。中央よりは宿毛よりに1か所の井越しがあるが、ここは川舟の上下に使われた所である。この堰も兼山独得の糸流しの工法で行われており下流に向って湾曲をなしている。
和田側の井流口から荒瀬を通って坂ノ下まで坂ノ下溝が通り、坂ノ下の水田の用水となっているが、これは前述のように、兼山の死亡後つくられたものである。
坂ノ下溝 河戸堰 河戸堰実測図
坂ノ下溝 河戸堰 河戸堰実測図