宿毛市史【近世編-土予国境論争-沖の島境界争い】

沖の島の国境

沖の島は、伊予、土佐両国に2分され、その境は、中世には一応確定され、『新助証文』、『宗見証文』、『天正地検帳』などに記載されていた。それらによると、両国の国境は、
芦のおりのり−川−しりなしを、−えぽしとり−北峰−大峰−仏の岡の道−ぬべるはえ−弘瀬の川−まくうちはえ−姫島はきれとうが境。
ということになる。
土佐側の資料は次の通りである

新助証文の1部

当島の境目の子細、あしのおりのりのはいをさかいして、川別ふみ候て、しりなしをさかい、えぼしとりをさかい、山をわけ候て、又此山に石三候。それを境に候。降は、仏の岡の道を別にふみ候て、ぬべるはいをさかいにて、それより下は川別にて候。

宗見証文の1部(文禄3年)

一、与州、土州境目、北は芦のおりのりのはへより南は皆土佐分、東はぬべるはヘよりみねわけ、東は皆土佐分也。
一、広瀬浦は、まくうちはへより南は皆土佐分なり、則まくうちはへより見あて候て姫島きれたうより南は皆土佐分也。

新助証文(沖之島地境諭) 弘瀬浦地検帳記載の国境
新助証文(沖之島地境諭) 弘瀬浦地検帳記載の国境

天正地検帳(天正58年)

一、伊予分ト土佐分ト堺ノ事
一、西ハマクウチハエヲ限、    一、在所ハ川わけ也
一、峰ノヌベルハエヲ限    一、大峰ヲ限也
一、北峰ヲ限    一、あしの峰ヲ限也
一、浜ハヲリノリヲ限也 以上。

しかし、この沖の島が、いつ伊予土佐両国に2分されたのかは、はっきりわかっていない。
土佐領の弘瀬に住居した人の先祖は、三浦則久という人で、鎌倉時代の末、元久2年(1205)に落人として鎌倉を逃れ、沖の島へ上陸して島祖となり、その後柏島氏の配下となって沖の島を支配して来たといわれている。
一方、伊子の御荘勧修寺氏の勢力が、鵜来島を経て沖の島の北西部に及び、その中心地が母島となっている。
このように、柏島氏と、御荘勧修寺氏との勢力が、この沖の島で接しているので度々国境争いが起きたもののようである。そのため、この両氏は会合して境を確定し、岩の上に幕を張って祝宴をした事もある。その岩をまくうちはいというのである。
「海ぎわ(弘瀬)に石三候。此石の上にてみしやう殿(御荘殿)鳥殿(柏島殿)ゆわいをめされ候によって、まくうちはいと申候。」(新助証文)
このまくうちはいは、弘瀬の川口の海岸にあったのであるが、船を引き上げるのに不便だとかで、現在は除けられている。
こうして、室町時代に度確定した国境であったが、この小さな島が、両国に分かれていることが、住民の生活には大きな支障となり、住民たちの生活上の要求は、この人為的な国境を越えて生活することとなりここに入相(入合)といって、両方より入りあって生産活動を行う共存の方法がとられるに至ったのである。
この入相も、生産力が少ないうちは、あまり問題にもならなかったが、生産力の向上により、漁場を占有しようとする気持ちが出てくると、ここに漁場網代の占有権を主張して国境争いが起り、更に先規という古いしきたりの取り扱いをめぐって、大論争が展開されるに至ったのである。この論争を、『沖の島地堺論』を中心として述べてみたい。

沖之島地堺諭 大和山伐採禁止(大平山は誤字)
沖之島地堺諭 大和山伐採禁止
(大平山は誤字)