宿毛市史【近世編-近世の沖の島-沖の島の鹿垣】

沖の島の鹿垣

沖島の記
沖島の記
現在では沖の島には、しかは1頭もいないが、藩政時代にはしかが多くいて、作物を食い荒し多くの被害を与えている。そのしかの害を防ぐために鹿垣という石垣を築いて、作物を守ったのである。
沖の島の中崎野市という所へ、宝暦年間(1751〜1764)畑を開懇した。そしてその周りに鹿垣を築いたのであるが、その間数は九百余間であった。また安永年中(1772〜1781)には、鍬抜尻という所で次郎助、弥五七の両人の願い出によって鹿垣が百間ばかり出来た。(南路志による)
天保頃になると、しかはますます多くなって作物を荒し、その上きぴしい自然条件の中で、いつしか土地は荒れ、生活は困難となり、妻子を養うことさへ、しかねる位の生活状態となった。年々この状態を藩に訴え、藩から補助の米をいただいて生活を続けていたのであるが、天保13年(1842)の秋高屋順平、園村永次郎が相談して、作配役寺田恵七郎、小尽七ヶ浦庄屋代浜田彦兵衛、安満地一切浦庄屋代亀谷権助を選んで、沖の島につかわし、野中兼山の弘瀬浦捉の趣旨をもう1度皆の者に実行させ、土地開発、産業の振興を行なわせたのである。3人は島民を動員して鹿垣を築くこと、千二百三十間余、人夫を使うこと、1215人で大工事を行ない、「沖島浦改正仕法并地下申附之事」という島民の守るべき条々を作成し、島の発展策を講じたのである。
その際、浜田彦兵衛は、天保14年(1843)『沖島の記』を記し、島の年中行事、産物、動植物、方言などを種々記しているが、その中で母島や弘瀬については次のように記している。

      沖島の記抄(原文は片仮名)
  凡て島西向き廻り7里と云
 西北伊予領、母島と云、少し入江、浜あり、船付あり、凡て山磯共、土佐分よりなごし、女国ひめくにの故ならんか。
人家51軒
島役人 侍御番所と云、家内3人あり
庄屋 沢近金五左衛門
宇和城下より遠島人 後藤何某、伊木何某

東南西、土左領、沖の島弘瀬浦と云。山甚だ瞼岨にして岩多し、浪常に高く荒て、船着あしし、西風四季に吹き、冬は30日ばかりも渡海ならず、柏島より海路4里、未申向き、弘瀬風景唐画の如し。
人家70軒 石を壁にしたるあり家造り甚低し、1段1段に家あり、上の家より下段の家の屋根を海に見越す
人高 264人 人物常に月代せず着用短く紐帯なり色黒く目多く丸し、夜などは男女見別がたきことあり水田子みずたご、薪は頭に置き往来す。
雨中に傘なし、下駄も用いず、石の上を往て濡れず、岩の上瞼岨の所を走り廻ること猿のごとし。

と記されている。鵜来島は最近まで頭上運搬の風習が残っていたが、沖の島も、天保頃はすべて頭上運搬であったことがこの記録でわかる。