宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活‐土地制度】

地高と人口

限られた土地に対して、耕作者であリ担税者としての人口はどのようであったであろうか。小農独立政策を推進したと云っても、土地の拡大がない限り零細農民としては生活が維持できなくなるのは自然の勢いであった。分家または分地を制限して人口の増加を防ぐことも政策の一つであった。
延宝5年(1677)に「百姓共地形分(ちぎようわけ)御式目」を出して耕地と労力の適正割当を布告した。それによると、
1.百姓は妻子、兄弟、下人まで合せて持高1貫文(10石に当る)に3人づつの稼ぎ人があれば、それ以上の人を抱えてはならない。但し15才以下60才以上および長病の者は格別である。また肝入、検断(町方の名主をいう)などが公務のために持高より1人2人余分に拘えるのは制限外である。
1.百姓の二男以下末子まで、また土地を持たない者は男30才以下は妻帯してはならない。但し家内の稼ぎ人が前条に比して持高より少い時は代官衆の差図しだいにすること。
1.百姓の持高が5貫文以上で割屋帳面になく自分に得たものは、5貫文以上の分は召し上げて高の少い百姓に配分する。
1.蔵入地でも給人知行地でも百姓が潰れた時は、代百姓を立てずにその村の高の少い百姓に配分する。
1.身上のよい百姓は今まで田畑の稼ぎをしない者が多いが、今後は百姓の務めを必ずさせる。
などが法令のおもな点であるが、この中で割屋帳面にない土地の5貫文以上の分を取上げるということは重要なことであった。割屋帳面にあるというのは検地によって高請をした意味で、それ以外に買得した分に制限を加えたわけである。これを当時は持添地といったが、それを制限することによって兼併の弊を防ぎ、また持高の少い百姓に配分することによって零細農家の向上をはかる意味を持っていたのである。しかし開墾地すなはち切添と新田開発によるときは5貫文以上になっても差支えなかったし、茶畑は持高に入れず除外例とされていた。(『近世農民生活史』)というが、このような措置が実際に行われたかどうか不明である。
藩内の地高は明らかであるが、そこに生活する人口構成については明確な数字が明らかではないが、安政4巳年(1857)2月の安芸郡川北村の指出によると次のとおりである。
1.家数 437軒
1.人数 2124人
  追書 238軒 百姓
      199軒 間人
        但田地宛り作初或は他所働日雇駄賃附地引網引子働仕申候
右ノ内
 男 1002人  747人 15オ以上
           255人 14才以下
 女  913人  685人 15才以上
           228人 14才以下
        但地中に罷在候者如此
 男  138人  123人 15才以上
            15人 14才以下
 女   71人   54人 15才以上
            17人 14才以下
        但御郭廻り初其余一紙指出の面々へ一季奉公に出居候者並他村市中共地下宗門の者へ一季雇ニ相成居
        候者共一切如此
外ニ
 男 5人 15才以下
 女 1人 14才以下
    但地下人共へ一季雇之者如此
1軒当りの平均家族数は5人弱となり、家族労働を主体とする農家の労力に不足を来すのではあるまいか。
宿毛市について考えてみるに、このような資料は残念ながら何1つない。『天正地検帳』に居ると書かれている数字を集計してみると831でその内訳は次のとおりである。

宿毛村(川より東)     45
宿毛村(川より西)     33
宿毛西分          15
宿毛北分           4
藻木津村          32
芳奈村           76
平田村           27
平田西村         113
橋上村々          84
榊浦            10
福良村          18
石原村          20
田野浦村         57
伊与野村         79
山田郷         144
還住藪村         11
楠山名          13
出村村           7
沖島村          43
計           831

藩政時代に入って、宝永年間(1704〜1711)にできたとみられている『土佐州郡志』によると次表のとおりであるが、記載されてない村もあるが、戸数約2千として、人口は1万位であったのではあるまいか。なお船は約65隻であるが、中に数隻とあるものもあるので凡そ100隻くらいはあったのであろう。
宿毛市の戸数(宝永年間1704〜1711)

村  名 戸 数 村  名 戸 数 村  名 戸 数
宿毛町分
宿毛郷分
和田村
二宮村
大深浦村
樺村
宇須々木村
藻来津村
大島村
呼崎村
錦村
深浦村
押ノ川村
伊与野村
福良村
150
120
100
70

10
30
10
70

15
20
30

 
  中津野村
草木藪村
山北村
野地村
橋上村
平野村
奥奈路村
神有村
坂本村
京法村
還住藪村
出井村
楠山村
津賀川村
   計
30

40

80
16
31
28
24
12
10
20
30
12
1983
  山田郷
吉奈村
平田郷
沖島弘瀬
小浦村
外浦
内浦
湊浦
大海浦
小筑紫村
田野浦
榊浦
石原村

 
230
110
350
76
23
20
52
48
16
32
30
14


 



15
数隻
数隻
20
20
数隻
10余

数隻


 

前記の『土佐州郡志』から40年ほどたって編纂されたものによって、土佐の地高と人口その他を集計したものに『土佐藩郷村調査書』(土佐史談81号以下連載)がある。これは『御国七郡郷村帳』によって便宜上表出したものである。原本は七郡各冊のほか附録1冊計8冊よりなり、寛保3年(1743)土佐絵図作成に当って編纂されたもので、石高は元禄13年(1700)調査のままであるからその頃までに開発された新田畠高を追加しなければ時代的に正確なものとは云いがたい。戸数、人口、男女性別、猟師用鉄砲、船数、網数、塩浜等は寛保2戌年(1742)各郷村庄屋をして調査録上させたものである。このほか原本には同年山奉行の録上した留山、山番、木屋、同じく庄屋の録上した高札場、御殿、境目番、相図火立場、川渉、古城跡等を併記してあり、遡って享保8卯年(1723)調査の神社、仏寺、正保郷村牒による田畠の旱損水損等も村々について併記してあったが表出に不便を感じて省略した。(平尾道雄編『土佐藩郷村調査書』)その原本は昭和20年戦災によって焼失したが、「編者の抄記による」調査書の中から宿毛市の分を左に抄記する。

村  名 石 高 戸 数 人口 猟銃 塩浜
弘瀬浦
榊 浦
大海村新田
呼 崎
津賀ノ川
伊与野
湊 浦
小 尽
外ノ浦
内ノ浦
小 浦
田野浦
田野浦枝郷鹿崎
福 良
石 原
平 田
宿 毛
宿毛村枝郷和田
同 押ノ川
同 錦
同 深浦
同大深浦
同加波(樺)
同宇須々岐
同藻 津
同大 島
同草木藪
同野 地
同山 北
同二ノ宮
同中津野
平 野
野 地
橋 上
奥奈路
京 法
還住藪
神 有
坂 本
芳 奈
山田(山田郷)
下山村枝郷出井
同 楠 山

   計
14,384
73,070
11,400
61,100
60,403
568,260
13,175
24,784
16,162
7,590
6,211
177,342
23,171
289,331
245,159
3,232,083
1,331,590
1,134,378
381,133
167,402
97,779
238,357
84,250
257,756
116,953
50,793
38,920
55,780
243,338
750,630
384,572
45,618
195,905
61,134
95,805
24,261
34,504
92,226
31,330
986,218
1,938,844
21,783
80,297

13,765,181
40
13
11


87
42
31
12
21
12
18

35
39
237
124
103
32
15
10
25
11
43
20
73

10
50
77
47
17
28
49
31
17
12
32
27
103
206
18
33

1,843
132
93
46
35
39
342
172
166
49
117
71
88
11
172
240
1,232
549
389
167
69
54
116
52
232
90
337
19
52
278
420
234
67
167
208
133
81
49
154
133
511
966
110
315

8,958
70
46
27
17
24
188
100
98
25
69
41
55

90
118
663
306
213
88
35
32
55
28
119
42
178

25
153
225
132
40
89
118
72
44
32
75
72
281
554
61
174

4,887
62
47
19
18
15
154
72
68
24
48
30
33

82
122
569
243
176
79
34
22
61
24
113
48
159
11
27
125
195
102
27
78
90
61
37
17
79
61
230
412
49
141

4,071





58







32
51
62
99
93
25
24

14

49
14



19
74
29

17
26
15


16

94
194
13
32

1,110




























23















62















11
























14

19
(10人)
109

10




13


11















20


















81
























































































この数字からみても1戸平均は4人強であって、当時の家族構成からみると親と子供と夫婦で4人では、農村の労働力として不足するのではあるまいかと思うが、限られた農地の耕作者が諸負担と家族の生活を支えるだけの収益をあげることが困難であったので、いわゆる間引が行われたのである。土佐は鬼国と云われた要因はそんなところにあるものと考へてよいのではなかろうか。
それからまた州郡志には船が百隻ほどあったはずであるが、郷村調査では81隻であるのはどういう理由によるものか。また幕末に及んで海防が叫ばれて鉄砲の所持者の数が多くなるのであるが、まだこの時は多くない。山間部に多いのは狩猟のためであろう。