宿毛市史【近世編-農村の組織と生活】

林業

現在の宿毛市の林業面積は、23,690ヘクタールで総土地面積に対する割合は83%である。藩政時代も同じような状態であったと思われる。
藩政時代には林業面積の占める割合は高く、その上比較的雨量が多いので、昔より林業が盛んで、木材、炭は主要な移出物となっている。
木材については、『篠山国境論定』に篠山で船材の船板や、かわら(龍骨)を伐出したと云う記録に見られるように篠山には優良な木があったものと思われる。又赤穂の船が、保佐木(薪)をつんで帰ったという記録も見られるが、林業面からいえばこれらは取りたてて云う程のことはなかったと思われる。
土佐藩全体として見れば、山地が多く雨量も多い関係で、優良な森林が多くあったのか、『土佐藩林業経済史』によると、豊臣秀吉の時代より献木が多くなり、元和から宝永にかけて、約90年間ほとんど絶間なく、徳川幕府に対して、大量の献木又は売却を行なっている。又商品として、大阪、京都への移出も多くなり、明暦2年(1656)の江戸の大火の際、2代忠義公文書に「此時分御国尽山ニ成、杉檜無之御公儀ヨリ御注文出候テハ、御好木之木品被差上儀成間敷」と、土佐の森林資源の少なくなったことの報告がなされている。
土佐の山林保護政策は、これより先小倉少助(元和3年参政の命をうける)は輪伐制を考案して施行しており、それをうけて野中兼山も薪炭林にも輪伐制を施行している。
輪伐制というのは、薪炭林についていえば、薪炭林は伐期になるのが15年〜20年である。そのため年々15分の1から20分の1を伐り出していくと、全山一巡りする頃には最初の伐り跡の樹木がその間に生育し、又伐ることが出来るようになって、永久に樹木が尽きることがないことをいう。薪炭林の輪伐制を考えたのも、当時東部の方は相当京都、大阪方面へ薪炭を積出し、裸山が多くなったのでそれを防ぐために考えられたもので、この輪伐にあわせて、積出す船数も制限されている。
杉檜等も50年〜60年の長期にわたる輪伐法を施行している。したがって植林も行われ、伐り跡には、つぎつぎと植林され、手入れも行なわれていったのである。
兼山失脚後もこの方法はうけつがれ、山奉行をおいて、この経営にあたり、各村々には山番があり、又庄屋、年寄なども、監督の責任を負い、盗伐や濫伐を監視した。このように山林経営に藩として意を用いているが、領民はどのように山と関係があったかを知るために、当時の林制をかかげてみる。
山林はつぎのような種目に分けられ、いろいろと規定されている。
留山官有林で藩用以外伐採を禁止。
預り山自然林を家老以下諸士が預ったもので、枯木や枯枝はとってよいが、生木がいる時は、山方役人の許可がいる。又藩が入用となった場合は異議なく返す。
支配預り山留山付近の一般住民よりの願いによって預けた山で、枯木枯枝下草の採取は許されたもの。立木を伐採する時は、山方役人に申し出て、代銀をはらって伐り出す。
支配山庶民が自由に支配できるものと、地下人が新しく野山を見立てて植林したものとがあり、大木の外は、自由に処分できる。
宮林留山に含まれる神社林、伐採禁止。
寺附林特定の寺院に藩より寄附されたもので、支配山同様の扱いをうける。
火除林留山の境、または良材をもとめる為に、十間乃至三十間の間を限って、代銀を徴収して解放するもの。
所林山留山の一種で、村々で支配するものであり、その村が困窮した時はこれを救うために部分的に解放されるもの。
関所林関所近辺の林で、本来留山であったが、枯枝や落葉は番人給としてとることを許し、立木は願いによって代銀を払って伐ることが出来る。
家掛山家屋敷付近の林で、屋敷幅にして高さは60間、在所の障害のない所に植林を許す民有林。
控山民有林で、家屋敷から遠く離れた林をさしたが、後には大部分家掛山といわれた。
井林山田役道具や材料用としておかれた山林。
伐畑山留山の内、伐採したあとへ植林したもの。
海辺潮霧囲松林浜松留林、防潮防風の目的でつくったもの、官有林。
明所山地下人が生活のため願い出た場合免許をもって解放されたもの。
野山地下人が肥草やわらび等をとるために地域を限って、解放する場所。
留山預り留山のうち山守給として枯枝や落葉の採取を許す場所。
散林留山のうち面積の小さなもの。
以上でわかるように農民が自由にできるのは家掛山、控山で、その外、地下人(部落の人)が共同で利用できるものに、野山があり明所山・井林山・支配山・支配預り山などにも農民の願いにより利用の道を開いてきた。
保佐木
東西の浦々から積出されたものに保佐木がある。浦司要録にも多くの箇所に保佐木の件がのせられている。皆山集によると保佐木一束は三尺八寸廻りとし一枡は五十七束六歩であった。貞享4年(1687)12月に「東西お留山の内にて浅木ぼさ薪類は望次第に請銀或は口銀に明け遣はさるること」になった。翌貞享5年正月には、「ぼさ木類及び材木、間板、松根、松節等も他国船が来て買積候義は制禁であったが、今年より明け遣わさる旨」の布告があった。
「嘉永6丑年当分覚書」の中に「銀百二十四貫三百七十五匁八分七厘、但右御留山の内にて保佐木並に御材木杣流方諸入目銀かくの如し」とあり、また「保佐木仕成しの事、一、保佐木千六百二十枡、但去子年分御家中へ御渡仰せつけらる分かくの如し」とある。これは土佐国中の総計であろう。
元禄13年(1700)7月の台風による浦分の被害の状況を『浦司要録』によって記してみよう。
「7月22日より同23日までの風雨に破損の船、潰家の外行方知れずの船各浦々より注進申来る趣御寄合に於て御奉行中御仕置所へ相達し候ところ江戸へ仰せあげらるる由につき」奉行所へ差出したものである。
1.船数165艘 内59艘廻船、106艘猟船
 61艘但津呂、椎名、安芸、志和、与津、柏島、奥内、下川口、粟津(大津)、貝ノ川、窪津、西泊、枝浦共、湊の内並に浜へ引上置、右の通。
 5 艘但安田、安芸、古間目、下川口にて右の通
 61艘但津呂、室津、安芸、上加江、与津、鈴、窪津、下川口、天地にて右の通
 38艘但室津、浦戸、仁ノ村、宇佐、野見、久礼、鈴、上ノ加江、下茅、下川口、粟津(大津)、貝ノ川、        天地より注進に来る。
   乗人数324人
    内118人無事、166人行方不明、内9人死骸揚る
1.家数340軒
 野見、須崎、与津、鈴、古間目、柏島、天地、橘、泊、沖之島、奥内ノ内、粟津(大津)、貝ノ川、窪津、津呂、下茅、内201軒破損、但此の外少々宛の痛家数軒御座候
 139軒 潰家
1.安田浦下茅浦商人保佐木一万四千五百石ばかり流失仕候。
これよリさき貞享4年(1687)9月9日の風雨によって、「福島(上灘下灘の境)より甲浦迄の浦人ども諸材木薪など浜へ出し置或は山元においてあったもの合せて10端帆610艘分の荷ならびに松根500斤、地引網3張、籾麦12石余、鯨網182端、苧37丸が流失した。右の風雨により甲浦までの人数男女16人、牛馬3疋が流れ或は潰家となった」とあり、台風による被害は相当なものがあったようである。
保佐木を江戸へ積出した記録は『浦司要録』にも見えているが、宿毛の切支丹宗門改の差出文書に「播州松原村の吉兵衛が14反帆1艘、船頭水主11人乗組で宿毛へ保佐積みに入ってきた」とあり、宿請人三原屋藤之丞、町庄屋忠左衛門の正徳5年(1715)8月8日の奥書がある。宿毛では赤穂の塩を買ったと云われているので、帰リに保佐木を積んだものであろう。この船は坂下分一役所の扱いであったものと思われる。

「田野浦より出す保佐木は小浦にて船に買積のとき掛ケロ銭を支払う。山師よリ出す分は田野浦村が受取り、船より出す分は小浦が受取ること。その時は船の大小に拘らず一艘宛順番を以て掛ヶ渡すこと。右二ヶ条は田野浦村が仕成す分は木だけでなく田野浦から出る物は右に同じ。」(文政4巳年6月、田ノ浦庄屋小右衛門、同老茂助、小浦庄屋又衛門、同組頭鉄平)とあリ、また
「田野浦村より苅出す茅は今までは小浦より積廻していたが、大島には自船があるので、直積にしなければ度々買に来ないので、田野浦が迷惑する。内々の相談によって相対にて勝手次第とする。尤積出の時は津口であるから小浦地下役へ届けねばならない。右浦の歩は今まで通りとする」(文政4巳年6月、田ノ浦庄屋小右衛門、同老藤助、小浦庄屋又右衛門、同組頭鉄平)

保佐木関係文書
保佐木関係文書
右は田ノ浦が仕成す保佐木を大島が買いに行くときの口銀の問題であるが、これでみると田ノ浦は津口と認められてなく、小浦が港として藩に認められていたわけである。直接取引をしても「津口の義につき」とあるように津口を通さなくてはならなかった。従って田ノ浦は山師分だけの収益であった。後にこのことについて見解の相違が出来たので、福良、湊浦の庄屋が仲裁した覚書には「此度散乱木につき田野浦と小浦に争いが出来たので私共立会で協議の結果、今回の分は両引を以てすました。今後木のことで問題が出来たときは、協議の上取計ふこと。従って新らしく問題が起るまでは従来の通りを以て郷浦地下人とも、入合にすること」(子ノ9月17日、福良村庄屋久五衛、湊浦庄屋園次、小浦庄屋又右衛門)とある。子年とあるのは文政11戊子年であろう。