宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活-宿毛領民一揆】

宿毛領民一揆

天明6丙午年(1786)11月に発生した事件である。此年5月には宿毛7代領主源蔵氏篤は病気の故を以て九郎兵衛保氏に家督を譲り隠居した。ついで8月4日(県年表には2月3日とある)には高知北会所より出火し高知屋敷類焼と伊賀系譜にはあるので保氏は奉行として高知にいたので、当分深尾多門宅に同居の状態であった。急いで屋敷の復旧もしなけれぱならなかったことであろう。世上一般に農村不況の状態であったから秋の年貢の取立は厳しかったものと思われる。
「去る22日、源蔵様(氏篤)の御鹿狩の時、それまでは勢子として郷中より百姓どもが出ていたが、其日に限り1人も出ないので、不審に思われて尋ねたところ、大切な御願があるので出ないとのことであった。御帰りのとき川原で、2、3人の者が貝を吹くと多くの百姓どもが鎌、槌、棒などを持って集り、御願申したいといった。全く上へ対しての御恨はないが、大目以下の役人を交替させてもらいたい。今年は今までの貢物の半分、土免は前々の通りに百姓一同願上げます、若し御聞届がなければ皆々立ち退く覚悟であります。今日御帰りの所で一同御下知を待っております。御役人を通じての願尤もである。このことを高知へ報告、その上で下知をする。それまでは皆々帰って待つように。必ずよろしきよう取計うからとのことで、その上庄屋共の取計らひにより引退いた。が、貝を吹いたとき遅参の者は打擲され、家財を打ちこわされたという。11月27日」(馬詰日記より−筆者不明)とあるが、この宿毛騒動の記録としては楠山村の庄屋篠田利左衛門重智(寛政10年10月17日没)が『天明6丙午年宿茂騒動実記』(高知大学図書館蔵)に詳細に書き記してある。以下それによって概略を述べることとする。

宿毛騒動之実記宿毛騒動之実記
宿毛騒動之実記宿毛騒動之実記

原因
「此の度の騒動は頭立つ家臣大目三郎兵衛が所為なり。」とし、当時の伊賀家の行政の担当者は長臣知行百石羽田十郎左衛門、同知行八十石池田甚五衛門、目附同三十石斎原又五郎それに仕置役で知行六十石の大目三郎兵衛(一説三郎左衛門)とその相役池内貞左衛門(長臣池内甚五衛門の長男)であった。大目は三十石であったのが近年加増によって六十石取りになったもので異常な抜擢である。大目の下役は長年陸目附をつとめた竹葉貞七の子善右衛門と、宿毛郷大庄屋をつとめた立田庄兵衛、それと生田佐兵衛であった。生田はもと宿毛領中山村大庄屋立田一子の後見であったが後年落度があり立田家が断絶した時、名字帯刀を召上げられて中山村に逼塞していたのであるが大目の推挙によって下役に取立てられたのである。そのほかに栗田本作も大目の引立てによって下役になったがもとは布袋屋本助といった。布袋屋は養子千次郎に譲り、養子の家に同居して、市中を責る工夫を専らしていたのである。
大目氏については、大目源太夫の姉伊津が伊賀家4代倫氏の妾になり、その子晴氏は5代領主となり、晴氏の子氏篤が7代の領主となった。そこで宿毛の財政をたてなおすべく大島浦の廻船問屋であった大目三郎兵衛を仕置役に抜擢したのであった。
伊賀家系譜によれば「山内靱負晴氏、幼名岩千代、右膳、永氏、恒氏、母妾大目氏」とあり東山の墓碑には「照臨院月光貞円信女、正徳5未年8月8日、倫氏妾、大目源太夫伊津」とある。伊賀家と大目氏との以上のような関係から商人であった大目三郎兵衛が抜擢されたものと考えられる。そこで厳重に諸年貢を取立てたものであろう。「大目三郎兵衛の所業を、4ヶ年前からの御領分の郷町ならぴに御領外ともかかりあいの私欲のあらまし」として次のように書かれている。
「宿毛領分の本田新田の区別なく田租が引上げられた。当分開きとか、かり上げ畠などに至るまで高い税率をかけ、せいぜい十石か二十石の村にも四、五十石増の貢物を取立てるので納税できかね困窮する者が多くなった。課役にしても公用に私慾を織りこみ、いろいろ術策を弄して私腹を肥やし、馬飼草、葉豆などはこれまで町方から買い入れていたのを、近来は百姓へ割付て無代で取立てるようになり、百姓の迷惑は一向に顧みない。
毎年の川戸普請には大目三郎兵衛は城下へ往来し御役手をたぱかり御領分の百姓を使うに出扶持は五、六合だけで不足分は諸拝借にて取立るという。たとえぱ五千人の積りを一、二千にてすます、尤普請の仕立は見かけよきようにすればよかったので人夫の扶持米が何十石になるか、また雇夫が何程になるか、すべて公儀を掠めて御為になるか。近年は外輪の作事も喰出したと云う。今日まで外輪役は1人七合五勺宛つかわさると云う。」
また大目屋敷には土蔵をかまえ御手元用品外輪用向の品々を貯蔵し、市中からは買いあげず、絹布類から小間物、油類、ローソク、茶、たばこ、かんぴよう、寒天まで貯蔵していたので町中これを恨む。また市中の富家に売る米として去年は二百石を尾野屋・菱屋へ売りつけた。町相場は八銭七十匁のものを九十匁として売り「御的用銀」との名目で取立てるので断ることもできない。もし他言する時は忽ち処罰される恐れがある。伊賀家の御買上物代もすべて九十匁とし六、七歩を支払うだけであった。酒屋、豆腐屋、肴屋、紺屋のたぐいみな右のようであり、諸品は大目の蔵に貯えられていたのである。
「大目三郎兵衛は衣食住の3つ満足す、常に酒色を好み、衣服日夜に着替え食物は山海の魚鳥に飽く。大目が宅を仕置役所として相役はもとより其外推挙の4人以下数々日々会談、下役4人かわるがわる下役を連れて夜分も勤番するなり。大目が屋敷に御用帳ならぴに御用物を置き、屋敷囲いは三重の高垣、座中より門へ渡し3つの鳴子をかけて夜分の出入を知る。また入らずの間があるとかねて聞いていたが、此騒動から後に彼家へ奉公した女が帰ったので直にたよって聞いたところ相違ないということである。」
「領分の市中ならぴに御公儀領のうち橋上郷中ならぴに下山郷のうち出井から楠山へかけて近年苦しむ。宿毛口は先年より他国より下値なる米穀も入り来り、米穀の自由は宜敷きところなるに近年は少しも入らず、あまつさえ宿毛口より出る米あり。中筋より出る袋米までも残らず栗田などが謀計を以て買取り宿毛米にして積出すとの風聞あり。当年などもありたることにや。これによってみるに米穀少なきにあらずしていよいよ高値なり。」伊予は刈入がおそく10月過ぎなければ郷中より出ないので夏の米の値段が例年10月頃まで変らないのであるが、「近年宿毛米高値なる故上中筋あたりの値段も高値なり、爾来宿毛の値段に準ずるなり。」
また松田川には数ヶ所の井関があるが、山地の物産を送り出すのにこの井関を通過するときには通関税をかけられるが、近年は二十匁とか三十匁に増額され、また昨年の秋からは保佐木1つに八銭百四十匁づつ取立てられた。今年春の田役までに八百目集まり、此銀で和田村の関を造ったというが、その利益は和田村の百姓の手に落るわけではない。「関は御手元より仰せつけられる筈の由、これらは御為か私欲か知れず山師どもの患ひ山元困窮の第一なり。御領外へかかる迷惑の筋なり」と騒動実記の篠田重智は記しているが、以上の諸悪が大目一党の私欲によって領分のみならず領外(出井、楠山その他)の住民たちはひとしく迷惑したのである。この不平不満が爆発したのが宿毛騒動であった。

経過
「霜月22日宿茂(毛)の鐘を合図に定め、押集る人数昼時までに4、500人におよぶ、それより追々馳集まり7、800人以上とも千人に及ぶとも申なり。百姓共口々に当時の仕置役以下をあげ色々雑言多し、大庄屋下村文次兵衛より鎮めるといえどもいよいよ逆立ち申すにつき、庄屋宅前へよせそのあらましを書きたるよし。坂下庄屋後見が書いて読みあげたるよし。坂下庄屋後見は元来仲屋幸十郎とて勝手よろしき町家なりしが、身上困窮して暮すところ沙汰よろしく召出さるとなり。」
右の下村文次兵衛も坂ノ下庄屋後見仲屋幸十郎も共に大目三郎兵衛の推挙によるものであった。百姓共の訴えを書きとってみると次の二か条であった。
一、御上へ恨み奉ることいささかもこれなく候
一、大目三郎兵衛を始めその一党の役差除かれたく願い候事
書き取りの口上は右のとおりであったが、大目三郎兵衛を百姓中へ引渡すよう要求したり、貢物半減や川戸の普請、諸種の課役の免除を訴えるなど種々の声が聞かれた。たまたま布袋屋本助が通りかかった。群集は「栗田本作の伜が何用あって来たのか、逃すな」と大勢で取囲み刃引した脇差などで手ひどくなぐりつけた。本助はやっと西の平庄屋のはからいで逃げだすことができたという。

一揆に参加する者は鎌1丁、とがりさす1本を持参するようとの指令があったが、和田村の庄屋は懸合のことだからとて、とがりさすは持たせず、若し入用なら取りに戻ればよいと云ってさすは持たせなかったという。平田村のうち宿毛領分は八百石余で百姓70人ぱかりであるが、大庄屋矢川万六がいろいろ説得したが聞入れない。そこで宿毛大庄屋に連絡して中山村まで行ったところを、平田村山田村の内に宿毛領があったので、ここで3か村の百姓の参加を漸く差留めたのであった。
一揆の集合したところは宿毛大庄屋の前から一里塚まで東西往還道から附近三反ばかりの麦畑であって、麦はさんざんに踏み荒らされた。(現在本町通り愛媛相互銀行から西へ200メートル位の間であろう)何分にも旧暦の11月22日の夜のことで冷えこみがひどいので、火の用心の番小屋を取りこわしてたき火をした。また坂ノ下からも薪をかつぎ出したと云う。
「同夜尾野屋、菱屋より夜食を相頼まれ仕出す、白米二石、(一度の支度この米をもって人数を知るべし)、酒二石四斗程(四斗樽にて舁ぎ出したるなり)、尾野屋善平は小野善平と云い万端弁たるものなり、徒党の様子を聞くより御役手へ出候て、自然支度など頼み来り候はば私ども後難御座候て仕成し出す存よりに御座候段御役手へ相届け候ところ、然るべきよう相はからい候へと仰せつけられ候よし。これを以て小野善平は1人にても仕出す用意は候へども菱屋善三郎へも相通じ申ところ同意を申来り候につき、両家より酒飯を調へ出すなり」と『騒動実記』には書かれている。
徒党の退いた跡には竹の焼とぎ(竹槍)が二荷ばかりあったほかに、細引三十匁ずつを持ちよったという。之は集めて大綱に仕立てるつもりであった。800人では二十四貫匁くらいあり、家を引倒すつもりであったと思われる。
一揆に参加したものは強制的に連判をとったが、宿毛家中の奉公人などは生活に関係するので家内を退けそつと連判に加わったようで、連判に加わらなかった者には野菜1本も売らぬと強迫されたという。坂ノ下の掛屋2人は家業熱心で宿毛宗門帳にも入り領主謁見も許され、家来同然の家筋なので事情を訴えて参加を拒絶したが、聞入れないのでやむなく夜に入ってふるいふるい徒党に参加したということも書かれている。
隠居山内源蔵氏篤の内意をうけて応接したのは正使中城栄助(当時陸目と申なり、格式3人ながら中扈従なり)、浜田幸右衛門(当時郷方として郷中の事を司る、格式同断)、岩村有助(右同断、格式同断)。岩村は「已来起るべき器量、尤このたびの悪党のうち生田文兵衛の聟であるので赤か白かはわかりかねる」と一揆文書にはある。ともかく源蔵の使者の口上は次のとおりであった。
「御隠居様御意の趣此度百姓共積年の困窮、願の個条尤に存ずる、不日詮議も付遣し度存ずれども当時隠居なれぱ早速九郎兵衛手前へ申達し候て追々よろしく御詮議仰せつけらるべき間、まづ相退き候様、寒気の節ふぴんに思召される旨」の口上を伝えると一同は「ありがたく存じ奉る旨感涙相催し候よし、それより東西に引退く」と文書にはあるが、また「万端願のとおり仰せつけられたく」と念を押す者もあり、また使者から「願の筋はわれわれが引うけ望のとおり取計らい申すぺし」との誓約の言葉を聞き安心して退出する者もあった。「御意を承ると大目一党への恨みがつのる感じがする」と云う者もいた。「引退き申す節土居の相見え候処にては拝み退き申よし」とも書かれている。
本稿が参考にした『天明6丙午年宿茂騒動実記』の筆者篠田重智は中村の幡多郡奉行所支配下の下山郷楠山村庄屋で通称利左衛門である。宿毛騒動が聞えた11月23日の夜奉行所へ出頭を命ぜられ先遣役坂本市助から宿毛の実情探索を命ぜられ、先遣役の矢川茂兵衛、中西嘉兵衛、中筋作配役太左衛門も出張するはずであるが、ともかく先発せよとの指図で、宿毛の大庄屋下村久次兵衛宅に着いたのは24日の夜明けであった。人目を避けて騒動の原因や経過についていろいろ質問したが、返答振りは極めてひかえ目で消極的であった。
宿毛からは当然高知城下へ使者が発ったはずである。23日五ッ時赤合羽の宿毛の早飛脚2人が中村町を通るのをみかけた者があり、同晩九ッ時には荒川村で篠田利左衛門が宿毛家中の中城栄助に行き逢った。高知への報告ではないかと見られている。
翌24日夜も暴徒が大目の家を襲撃すると云う風説があり、周辺の関係者を緊張させたが、これは単なる流言であったらしい。
「24日の晩は町方ひそめきあり、且つ翌25日宿毛出達のところ宿毛本町の若屋幸吉と申もの来り、夕は騒がしく得と御休息なされまじく私方中角村の宿仕り候所、四ッ時右村庄屋吉右衛門あわただしく来り参りかけ立寄り、只々帰ると出候てやがて帰られ候て終夜起き居り申すに付、色々問かけ申し候所、庄屋申さるるに、今夜大目が家を巻き崩し申すとの沙汰にて在所騒がしく候故届け来ると申候、是は24日宿毛滞留の晩の事実なり」と書いている。
源蔵の口上によって験動は静まったのであるが、伊賀家もまた中村奉行所も鎮静を見届けるまでは不安であったので、いろいろ風聞があったものと思われる。篠田利左衛門の聞書によって大目一党の処分をまとめてみよう。

結果
27日夜八ッ時に「大目宅へ役人中入来り妻子、三郎兵衛妹聟浜田弥五左衛門へ御預け仰せつけらるるなり。」その夜は大変な騒ぎであった。今春来大目に奉公していた中村下町の弁吉の娘が一所に立退き帰って来たので、翌日その娘に聞くと夜具なども取出すことはできず、わらび繩でしばって押入れに残し、やっと白米2俵分を風呂敷を袋にして詰めこんで持出しただけであった。これは三郎兵衛が高知出張中の留守扶持で、白米10俵分を袋に入れた一部であるが、日常この1袋分が3日に足らず消費されていたという。
騒動が起ったとき大目は高知の屋敷が焼失したのでその普請に携っていたのであるが、高知で仕置役を免ぜられ12月2日に宿毛に帰って来た。旅装は平常の通りであったが、宿毛に着くと田付又兵衛、大谷八左衛門へ身柄を預けられた。大小を取上げられ一時大目の6畳の間に収容、まもなく宿毛会所内に揚り屋(牢屋)を急造してそこに移した。「宿毛御会所の内板囲のアガリヤ出来、駕籠にて移り候由、相役並びに加担の面々は自宅に差扣と聞く。追々片づけ候様仰せつけられ、当時万端御詮議かかり申すなり。」
大目三郎兵衛は禁獄同様、その同類と認められた者はみな自宅に謹慎という形で、審判をうけることになった。篠田利左衛門の聞書によると、5日から6日にかけて大目の倉庫から蔵銀を搬出した。15人掛りでも片付かなかったという。「大島浦当番喜代助が承り帰りたるが相応か。銀6箱銭五十貫文となり。川口、山田、中村などに余計の預け銀ありと専らの沙汰なり」ともあるが詳細は不明である。
「御領分へ願筋御聞届け仰つけられ候。平常の通り家業油断なく相励み申すよう御触れあり、今月4日5日沙汰」とあって一揆の願の通り聞き届けたとあり、貢物米の税率も引下げられたことになるが、「近年の上り免、免からみ半免願か地盤山北村辺を聞くに甚だ以てよろしき土地柄は日損水損なく土地尤もよろしく常に当村(楠山村)などの者羨む、然に願ひの筋通り仰せつけらると申す御触にてあるまじく願の通り御詮議仰せつけらるる間平常のとおり油断なく家業相励み候様との御触なるべし」と篠田利左衛門は書いているが、また「当月4日市中へ近年差引合にて損失ある者どもは具に書立差出し候様に御触れこれあるよし、是等はさもあるべき事なり」とも書かれており、真相は明らかにされていない。
大目三郎兵衛(左衛門)の処分について中村常山の書状に「三郎左衛門は高知へ出府、長屋作事頭取りいたし居り候所、にわかに差下されて退役、その上知行改易にて大島へ追放の由」とあるだけである。大目の同役池内貞左衛門や下役の竹葉善左衛門、立田庄兵衛、生田佐兵衛、栗田本作等もそれぞれの処分を受けたものと察せられるが、詳しいことはわからない。また仕立屋品右衛門と云う町人は「与州宇和島の産、壮年の頃より江戸にて仕立を習い、久しく宿毛牛瀬に帰住す。大目へ取入り御領分の異事を聞立て告ぐる、これによって騒動以来色々の落書などこれあり不首尾、布袋屋本助も同断」とあっていろいろ雑説があったらしい。宿毛騒動については公的記録がないので正確な始末はわからないが、これは当局が波及することを警戒して隠密に処置した結果であろう。