宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐浦奉行と分一役】

分一役所と米蔵

『南路志』によると宿毛坂ノ下村に分一役所があった。「二間梁に桁行四間半向三尺に四間半の瓦庇付あり」とあって坂ノ下から積み出す保佐薪その他の口銀1ヶ年凡そ六百目を徴収した。また掛屋二軒の定めであった。
安永7年(1778)5月の谷真潮の『西浦廻見日記』によると「和田村送り番所有り、宿毛の土居を右にして川辺をつけて、小道より坂下へ行く。かけや長大夫に宿る。ここはすべて宿毛の郷主の地なり。分一御蔵床は無年貢なり、御蔵入は米千石余。(中略)ここに掛屋というもの2人有て御蔵分一の諸立合に相見をするなり。元来このかけやは山師より2歩の口銭をとりて保佐木をかけて舟に積ものなり。されば船宿をもするなり。□□□の者役人に相見することいかにぞや。庄屋平次衛門にはじめいかなる故にて彼等相見はじまれるやと問ふに曰く、私先祖不勘にして銀子包事などならず掛屋をやとひけるより分一の手伝に出しが自然と相見をもする事になれりと云伝ふるよし。庄や平次衛門は八代庄屋なりとぞ。(中略)掛屋長大夫先祖は安喜より来り掛屋をする、5代になるよし。幡多三万石再御拝領の時よりなりとぞ。今1人次衛門は3代になる」とあって掛屋のことを知ることができる。ここで谷真潮は「坂下は地検帳なし」と書いているが、分一役所のあったところは現在の「下モ谷(オクラの谷)」といわれている所で蔵屋敷のホノキがあり奥内郷への道であった。地検帳にいう坂下村は奥内郷への旧道である三倉山峠の下にあたる所であろう。そこに「西谷」のホノギが今も残っている。地検帳にある塩須賀村「トク道ハタ町ヤシキ家数18」とあるのは三倉峠へ上るところに「町屋敷」のホノギがあるところがそれであろう。坂ノ下村は地検帳にはせまい範囲であるが、いわゆる三倉峠の下にあたるところであって坂ノ下村の中心をなすところと考えてよいものと思う。
大島浦が公儀の浦になったのは寛文5年(1665)であるが、浜田家文書によると、元文2年(1737)津口役仰せつけられ、延享4年(1747)大島浦分一役兼帯となるとあるが、分一役所については他に確認する資料はない。
外ノ浦の分一役所は「二間梁、桁行三間、南西に折廻り半間に四間の下あり、小浦、外浦、内浦、湊浦を合せて諸口銀一貫目」(南路志)とあり、外ノ浦の土免定には「八升七合、御分一床引地」とあって年貢を免除されている。『西浦廻見記』には「分一のほとりの出崎より出る。舟は天地より迎に来れるなり、島々見えて景色いとよし、宿毛領の島、一島大島片島池浦島霧島大戸島なり、大島のみ人家ありて賑はしきさまなリ、畠なども有るおもむき見ゆ湊よしと云」「さてこぎゆくほどかしこここと見渡して奥内のかたにこぎ入、小浦を見わたし外の浦内の浦をわたし見て湊浦に舟をつけてあがりぬ。湊浦近年かしつけなど有、鰹舟1艘しいだせしなり、家居も新らしく立たる所数々有、いきほひよく見ゆ。庄屋徳衛門に休む、徳衛門が名字永富なりとぞ。ここの湊にながれ出る川伊与野川なり。(中略)伊与野は人家62軒人240余人土地がらよろしく見ゆ。伊与野と小筑紫の境にひびきの松とて木たち古りて栄たる松有。菅家七日島に7日滞留ありて御能ありし時の松なりと云。此もとに石仏ありて修行者を接待する所なり、さて小筑紫にいたる。天神社あり、七日島は湊の内に有る小島なり。家居少々有、分一屋沖の島々を見て景色いとよし。御蔵は五百石□□三原奥内の村よりなり(中略)ここは漁のた(た)まにて御ひたり鰹舟一艘仕入五貫目ほど入なり。されば小築紫地下の力にては出来かたしとぞ。小つくし廿ヶ年ほど前はうるめいわし過分にとれし、久しく来らさりしが2、3年以来やう〜入来りぬ。これ来りてとるる時は浦も富べきよしなり。小つくし庄屋六郎兵御は8代ここに居、本氏は佐竹なり。この浦昔は家40ばかりもありしよし。六郎兵衛覚候ては家25軒ありしがそれも減して今は17軒あるなり。六郎兵衛にとまる」と廻見記にあって小筑紫の分一役所が記されているが、小筑紫に分一役所があったという記録は他には見当らない。
榊浦の分一役所は「二間梁に桁行六間、北側は半間に二間の肘付、南側は半間に四間庇付、北側半間に四間の下あり、津口を出すものは保佐薪、椎皮、揚梅皮、諸口銀一貫四百目余、諸漁請口銀三百八十目七厘」(『南路志』)とあリ、また高札場があって「桁行二間五尺、横三尺五寸」と大きさを示してある。谷真潮は舟で榊へ行った。「舟にて榊浦を見る、谷々に家1、2軒あり、鰹などとる網代家の下にあり、この榊より見れば大島大戸島等を小口より見る。臼すき等のかたも見ゆ、樽をたづさえて浮生をここにたのしみたき思ひあり」と記しているだけであって、ここに分一のあったことなど書かれてはいない。
当時疫病の流行によって多くの人々が死んだといわれているが、「六郎兵衛に奥内郷の悪病を問ふにいわく、石原村の権作というもの11人の家内なりしが、疫病をやみて2、3年の間に死して1人残れり。栄喜(榊)の喜三郎というもの9人の家内1人残り此頃其1人漸く水主をする無慙なることなりとぞ。近年は其病なくなれりとぞ」(『西浦廻見日記』)とあリ、奥内の浦々は流行病のため一時全滅の状態であったことがうかがえるのである。
沖島弘瀬浦の分一役所は「二間梁に三間、二方瓦ひさし、諸漁請口銀二百二十六匁一厘」(『南路志』)とある。ここにも高札場があった。「御高札場一ケ所土予両国境にこれあり、甲浦石をもって橋掛りがあるので甲浦橋とも、また両国橋とも云う」(『土佐国群書類従』)分一役所のあった所に年貢米を入れる米蔵があった。弘瀬のは「九尺に九尺」とだけであるが、榊浦の御米蔵は「二間半梁に桁行七間板壁戸前二」とあり収納する米五百石余、御蔵下として福良、芳ノ沢、添ノ川、弘見、伊与野、田ノ浦、津賀川、弘野、下タ切、亀ノ川と記されている。
宿毛坂ノ下村には御米蔵二軒とあり「二間半梁に桁行七間戸前2ヶ所、二間半梁に桁行六間戸前1ケ所、御蔵納米九百石余」とある。蔵下として橋上郷、芳奈、平田、戸内、黒川(南路志)とある。
蔵下として村々の名をあげてあるが、村々には納所場があり、そこで受取った年貢米を指定された米蔵に収納して藩へ納めたものである。