宿毛市史【近世編‐漁村の組織と生活‐漁場と水産物】

水産物

宿毛湾内でどのような漁獲物があったかという具体的な数字は明らかでない。弘化年間(1844−48)の調査書によると鰹船が沖の島5、柏島4、その他の漁船が63で、網が39張である。『南路志』によると船が大小64網25張であって弘化年間よりも減少しているのである。
「其地我等領内にて信州家中の者鯨取候処其方の子次郎作相理りくろ皮合せて二十貫目取候由一段尤に候、以来の為にて候処奇持感悦に思召候、以後とても能々相改むべく候、南十兵衛書状返したく將亦其方より越候鯨も留置候、此方にて先度取候間大桶一遣候、調味仕るべく候、2月18日、忠義」(『三浦家文書』)
この書状は何年であるか不明であるが、沖の島へ来て鯨を取っている者を見つけ「くろ皮合せて二十貫目」を没収したと云うのである。

相州カツオ釣図
相州カツオ釣図

明暦2年に浦奉行であった西山七郎衛門、淡輪四郎兵衛が西浦々を廻って野中兼山への報告によると「鰹節、熊引、かます、からすみ右は両年御城繕御用程浦々より年々引付を以て召しおかれ代銀遣さる筈に候へ共国中残らず御直浦に仰せつけられ候上は毎年の懸口御定なされ御捨免の分一によりかつをぶし御念を入れられ其浦々へ例年御かけ候ほどは用意候へと仰せられ候(中略)秋の鰹節よく候へ共自然秋とれ申さざる時の用意に候間御油断候まじく候。熊引、かます塩目をよく仰せつけらるべく候」とあって、浦は全部が直分で鰹節は分一として徴収したものであろう。「爰元も去る13、14日の猟に加へて鰹節地口とも8700ふし計の程にて御座候、そこ元野見にも1314日両日能き猟加へ候てそこ元も節過分にこれあるべくと存ずる事に候」「分一の節御用ほど残置候へと仰せ渡され候へ共6月の土用より内のふしは虫つきてたしなみおかれ申さず候、その上早鰹は事の外上方にて高値に御座候に付分一の節残らず上方へのぽせ申候、則野見より下田までに節舟5艘仕立させ申候事」
「浦々分一の節上方へのぼせ申す儀この時分上方相場も思はしくこれなき由に候、熊野、阿州、日向にもよき猟これなき由風聞に候、されば上方相場次第になおり申儀もあるべく候間とくと聞あわせ下田御手舟にて時々1艘づつ上せて然るべくと存申候。(下略)壬卯月廿三日」(『兼山関係文書』)というのである。このように奉行の指図によって主として上方へ積み出されていたのであるが、また下関九州方面へも積み出されていたことは、明暦2年(1656)5月2日に清水に居住していた吉十郎が九州へ出した鰹節船が、豊前ひめ島沖で海賊におそわれて2人が斬られ1人が手負いとなって帰って来たことが報告されている(『兼山関係文書』)のをみても明らかである。

宿毛湾の漁獲物

山内忠豊書状
山内忠豊書状
宿毛湾内の漁業はその漁船の数や漁具についてみても大したことはなかったように思われる。どんな魚がとれたかという具体的なことは沖の島の三浦家文書に藩王忠義や忠豊からの手紙がある。どれも年代は不明であるが熊引10枚、そち5本、塩鰤5本、鰹節一折100、あかむろのしつき1桶、おぼそ10本、鰹のひらき一折15、防風漬1桶、ねいり30枚などが三浦家から贈られている。これらはどれも干物かしつき(塩づけのこと)であった。
「小倉少介方より宇和鰯の儀申し遣し候ところ日振の船を仕立て取リよせて鰯1俵と鰯の黒作り(塩漬かまたは塩辛の類であろう)2桶のうち1桶は其方の清家久左衛門よりの音信に遣し候。黒漬の由(中略)鰯をつけ候ところは久左衛門つきおり念を入れ申付候由(下略)10月10日忠」とあり、鰯の黒作りというもののあったことがわかる。
以上は三浦家から藩主へ送ったものであるが、宿毛湾内では、ぽら、あじ、むろあじ、めじか、いわしそのほか磯魚の類の漁獲があったものと思われる。明暦2年の淡輪四郎兵衛の覚書によると「3月15日主計様(野中兼山)仰せらるるは、いわしの子にわたも入れてなし物に渡され、塩かげんよくさせ候へと仰せられ候、此のうちはから過ぎて悪しき由仰せられ候」(『兼山関係文書』)とあるのはいわしの干物がからすぎる、とかく塩加減が大切であるというのである。
なお三浦家文書の魚の御礼の中に「去る頃江戸へも使者ならびに草踏皮五足到来満足せしめ候、その砌取まぎれ書状遣さず候間なお近日遣し申すべく候。3月16日、忠」とあるのは何年か不明であるが、「対州様には御皮足袋をめしけるとなり、先年沖島三浦氏よりカマスのしつき一壼に皮足袋3足差上し事ありけるに御書遣され御礼仰せられしとなり」(皆山集第3巻)と対応するものと思われ、草踏皮とあるのは皮足袋のことのようである。
『土陽渕岳志』には「唐墨(からすみ)、鰡の子を脯(ほじし)にしたるなり、さわらの子も其性同じ、幡多郡宿毛の海に出るものを上品とす。大樹君へ御献上の一つなり」とあるが、からすみは奥内郷で生産されたようである。また「幡多郡宿毛領のうち宇須々木浦にアオサという海苔あり、品川のりと一にして別なり、石につきてあり、採りて干してこれを食う、味美なり、その色青し、そのほか浦々に一処あり取ありときく。フノリ幡多郡浦々沢山あり、浦人採りて糧とす」とある。フノリ、テングサの類は奥内の浦々にかけて産出されている。アオサは各川口で採れる。松田川では河口付近でアオサ、アオノリが採れる。昭和45年頃までは、年間一千万円以上の水揚げがあったが、最近は水質汚濁が原因であろう激減している。