宿毛市史【近世編‐交通‐陸上交通】

街道

山内一豊の入国以後、土佐の主要街道は、ようやく整備されてきた。
松尾坂−宿毛−中村−伊与木の大道筋は、宿毛、高知を結ぷ重要な街道であった。この道を宿毛の領主は、かごにゆられ、お供の侍を多勢連れて何十回となく往復したことであろうし、その他多くの旅人や商人、或は遍路たちも通行し、なかなかのにぎわいを見せていたのである。
しかしこの道は、山のすそを曲りくねって通ったり、峠を越えたりする街道で、道幅は一間内外の所が多く、大八車さえ通らない所も多くあって、今の道路と比べると、全く話にならないくらいの道であった。
高知より宿毛までの主な里程は次の通りである。
高知より佐賀まで20里
 〃  中村まで26里
 〃  宿毛土居まで32里
 〃  大深浦まで33里
 〃  松尾坂まで33里半
土佐の一里は公式の場合や主要街道では三十六町が使われ、その他国内一般では五十町一里が慣用として使われていた。そのため史科の中に三十六町一里と、五十町一里と両方が出て来て混乱するのであるが、土佐の一里はもともとは五十町であったのである。この五十町一里は古代中世を通じて使用され、これが根強く一般に浸とうしていたのであるが江戸時代になって募府からの指導があり、三十六町一里に改正したもののようである。そのため募府巡見使への応接の心得帳や、藩主の巡見記等の公式の記録、地図などすべて三十六町一里が使用され、主要街通の一里塚も三十六町で建てられているようである。
しかし、一般にはやはり五十町一里が使われており、明治4年9月5日に高知県勧業局の布告として、
「従来県内里数五拾丁一里之処、今般詮議之上天下一般之三拾六丁一里に改正仰せ付けられ候…」と出されたが、それでも土佐清水市方面では大正時代或は昭和初期頃まで老人たちの間では五十町一里が使用されていたのである。小筑紫町石原の古老の話によると明治年中は殆んど五十町一里を使っていたが、明治の中頃からは、さんろく(三六即ち三十六町一里)も使った、といっている。
このようなわけで、前記の高知よりの里程や、次に記す一里塚などは、三十六町一里で計算されているのである。

松尾坂
標高310メートルの松尾坂は伊予、土佐両国の国境であり、往来の激しい街道であったため、峠には伊予側と土佐側双方に休み茶屋もあったのである。今はこの街道も荒れはてて人の通行も思うようにできない位であるが、峠には二基の国境の碑が立って往時をしのばせてくれる。
土佐側のものは
   従是東土佐国
伊予側のものは
   従是西伊予国宇和島藩支配地
とあり双方とも高さ地上1、8メートルに幅、厚さともに20センチの石柱である。
伊予側の石柱は貞享4年3月に建てたものであり(幡多郡中工事訴諸品目録)土佐側の石柱は貞享5年(1688)4月7日に建てたもので、高知で製作して下田まで船便で運ぴ、その後この地に運んだものである。このことについて『幡多郡中工事訴諸品目録』の中には次のように記されている。

  貞享5年
一当郡宿茂松尾坂傍示境之印杭、今年石ニ被仰付、従高知角田儀右衛門以送状、下田浦迄船便差廻申候、依之彼浦宿茂迄為持遣置、兼て宿茂大庄屋勝兵衛方宇和島領庄屋方迄通路仕則石坂源右衛門差遣候処、彼地岡田久丞と申知行弐百石取候由、道具為持罷越尤彼地之庄屋此方之庄屋出会四月七日為立申候、此段其節御仕置中申達候事、

松尾坂大深浦登り口 石柱の記録
松尾坂大深浦登り口 石柱の記録