宿毛市史【近世編‐交通-海上交通】

海上交通

広島陣(福島正則改易、元和5年6月)に山内可氏は出陣した。「牛ノ瀬に勢揃して関船3艘、うち大関は九反帆、残り2艘は六反帆、荷舟4、5艘であった」(妙栄寺文書)。これらの船は堂の前から豊後水道を北上したものと思われるが、高知からの船も西廻りではあるまいか。
伊賀氏が関船を持っていたことは広島陣のことでもわかるが伊賀系譜によると2代定氏の「寛永9壬申年百々出雲御使者として肥後へ遣はさる時、天地浦にて難風にあい御船破損其節自分関船御用相立て」とある。寛永11甲戌年將軍家光上洛により忠義・忠豊が上京するについて京都へ参るべく仰せつけられ、「宿毛より瀬戸内立越御用相勤」とあるので、宿毛から直接京都へ行ったものと思われる。その時「忠義公御帰国御迎えの船参らず定氏の関船で大阪より紀州田川乗船」とある。そこからの便船のことは明らかでない。

山内太郎左衛門殿船
山内太郎左衛門殿船

寛永13丙子年(1636)には「忠義公御帰国予州松山松平隠岐守様御見舞、瀬戸内御通船大島御入船宿毛土居御成一両日御滞留」とある。また正保2乙酉年(1645)「家綱公御袴着御祝儀のため」江戸へ行き帰国の途中岐阜で「忠義公に御行逢御奉書差上げ勝手帰国の御暇遣はされ瀬戸内通船宿毛帰着」とあって瀬戸内海の交通が行なわれていたのである。
3代節氏になると慶安3寅年(1650)に「九端の荷船1艘出来候」と『清文公一代記』にある。また「明暦2年(1656)5月、15端の関船仰せつけられ翌年出来仕候」とある。この関船は元禄3年(1690)5月に15端の関船を作りなおし翌年3月出来ている。また明暦2年には「貝塚にあった御舟屋大島へ引申由」とある。それまで宿毛の船着場は貝塚にあり幕末まで貝塚が船着場であったらしい。この舟屋と云うのは関船を入れておく舟蔵のことであろうか。なお「寛文5乙巳年(1665)の比大島の儀御公義浦に仰せつけらるべき趣に付御改仰上られ先規の通り罷成候」とあるので、ここで大島が公儀浦としての取扱をうけることになったものと考える。忠義公が大島へ入船した寛永13年にはまだ公儀浦としての取扱いはなかったのであろう。しかし大島が公儀浦としての取扱いをうけることになっても貝塚又は錦が宿毛の港として存在したようである。寛文11年豊昌公西郡巡国のときには10月16日宿毛着、翌17日錦より柏島へ渡っている。また嘉永5年本山以慶は大島浦から伊予中島真吉船にて大阪の華岡青州に入門しているのであるから、海上交通は盛んであった。宿毛の船着場としては錦または貝塚であったようである。

海運と船舶

北斗星により時を知る法
北斗星により時を知る法

浦人の主要な生業の1つは運漕業で、廻船所有者は商品運漕に従事するのであるが、また藩に徴用されて官物運輸にも従事しなけれぱならなかった。
「きっと申遺し候、今回豊後へ米積に船を遣し侯間幡多郡中浦々の水主へは、所々人数に随って半分にても久兵衛より申遺す通り、日限相違仕らざる様に浦戸へ差越すべく候。粮米以下丈夫に申しつくべく候、又所により六反帆より上の船のある所は其所の庄屋は報告すると共に直に差遣すべく候、若し船のある浦々で隠し候はば曲言たるべく候。
  5月12日           一豊
  浦々刀祢庄屋中
  なお此等の者は泊々にて飯を食わせ申べく候」
(この手紙は年次不明であるが、長宗我部時代の刀祢の名が使われているので、山内一豊の土佐入国が慶長6年であるから、それから間もない頃のものと思われる)(『土佐藩漁業経済史』)
九州豊後国から米を移入するために廻船と水主の徴発を命じた文書である。また2月21日付の浦戸以東の庄屋に同じように水主徴発を督促した文書には、「毎度怠これある段曲言に候、油断に於ては成敗すべく候」とあり、また2月24日には、「大坂水主の儀申しつくべく候条浦々庄屋共早々浦戸まで越すべく油断候はば曲言たるべきもの也」との示達文書もある。

大御座船15反帆
大御座船15反帆

この制度は後年まで存続し、蔵米や国産品の積み出しだけでなく、藩主の参勤、帰国にも申しつけられた。藩政府の船手方の関船や小早船は主として人員の輸送であって、貨物は廻船を用いたのである。水主も廻船水主、櫓手水主、引船水主に区分された。水主徴用手当として1日1人につき扶持米一升、給銀十五匁を支給された。廻船の外に市艇(いさば)があるが、これは5枚帆以下の小船で領内沿海に使用された。
浦人の本業は漁業である。従って漁船や漁網の整備その改良には漁民自らの改良工夫努力が要請され、藩もまたその振興には尽力したものである。しかし時勢の影響をうけて漁民も商業その他に心を移す傾向が出て来たので藩は布告を発してこれを戒めている。
「浦人は漁業を以て生活が成りたっていることを心得、本業の成り立つことを第一と致すべきところ、近年は商業に心を向け、本業を怠るようになり、市艇水主或は持売を心懸る者もある。これは浦人の本意を失う不心得者である。これによって何れも本業に励み、生活成立ちが第一であることを心得地下役共より浦人共へさとし、尚また分一役場へ呼び出し船網等増加になるよう作配をなすべきよう」(文政6年(1823)正月22日)に要請している。

楷船と伝間の図
楷船と伝間の図

漁船や漁網の販売修理、生魚の取引や加工のために浦分に商工業者が入込んで来るようになった。天保年間(1830〜43)の調査によると水主漁師の数が上灘で9,515人、下灘で11,825人合計21,340人、商人は上灘で8,823人、下灘で7,671人合計16,494人であり、総計で水主漁師が4,846人多いのである。職人は上灘で1,962人、下灘で846人、合計2,808人、間人が上灘で4,741人、下灘で3,299人、合計8,040人であり、その他に庄屋一族、地下浪人、医師、社人、陰陽師、僧、瞽女、坐頭などが若干居たのである。
浦々の経済状態を知るには魚獲高や物資の移出入または領内の取引高を詳細に知る必要があるが、その資料は皆無に等しい。そこで漁船または網等の状況によって察するより外ないのである。しかしこれとても時代によって変化があって正確な数字は得がたいが、その幾つかを掲げることとする。
  天保年間船数(1830〜44)
  廻船 市艇 鯨船 鰹船 諸漁船 漁  網
上灘 32 313 55 45 1,037 563
下灘 18 23 196    190 1,011 690
合計 24 55 509 55 235 2,048 1,253
  水主、船舶表
 天和3年(1683)の水主、船舶の数は左表の通りであるが宿毛市関係を別に抜き出してみるとこのような数字である。

浦   名 水  主 船  数 十九
反帆
十三
反帆
十二
反帆
十一
反帆
十 
反帆
九 
反帆
八 
反帆
七 
反帆
六 
反帆
五 
枚帆
四 
枚帆
  
漁 船
土佐全浦合計 7,174 1,621 19 65 119 214 105 76 84 114 814
柏島一切天地 218 43                   36
小      浦 49                    
外   之  浦 29                    
内   之  浦 81 14                     13
湊       浦 50                    
小      尽 33                
大      海 21                  
栄      喜 13                      
宿 毛 大 島 61 17             10    
沖   ノ   島 65 不詳                        

これらの水主や船舶は非常の場合軍用に徴発されることになっていたことは前記の通りであるが、長宗我部文書にも山内文書にも往々その文書を見出すことができるが「秘書」によれば浦々総水主5,950人(内5,232人入用高、718人用意水主)総船数のうち165艘内107艘入用高、58艘用意船)が、不時の軍船として指定され「浦浦ありあわせ船のうち善悪を撰み悪しき船道具不足これなきよう相改め集むべきなり」と注意が加えられている。
(『土佐藩漁業経済史』)
  海村状態調査書
 (山内家所蔵記録による。(中略)幡多郡坂下が空白となったのは天保14年覚書に「浦人住居の者御座なく」との理由による。)

  戸 数 人 口 鰹 船 鯨 船 諸漁船 諸 網 漁     業
沖   ノ   島
柏       島
小尽、大海、栄喜
湊、内外、小浦
坂       下

入海港
入海港
(小尽)

77
86
100


302
402
746







 
12
45



13
20


鰹、引網小漁
鰹、鰯、網漁其余小漁
鰡、、引網



右は弘化年間(1844〜48)の調査と推定される浦々諸縮書によるものである。(「土佐藩漁業経済史』)
また『土佐州郡志』及ぴ『南路志』による浦々の民家数と人口及ぴ船数は次表のとおりである。これらの表によってみると宿毛湾における漁業がいかに不振であったかがわかるような気もする。これは地理的な理由によるものもあるものと考えられる。

  土佐州郡志 南 路 志  
浦 名
弘 瀬
柏 島
榊 浦
小筑紫
湊 浦
内 浦
外 浦
小 浦
大 海
家 数
76
126
14
32
48
52
20
23
16
船  数
15
39
数艘
10余艘
20
20
数艘
数艘
数艘
家数
35
65
10
18
20
10



人 数
137
275
70
102
106
60
31


船 数
18
20
小船5
小船6
小船7
小船5
網舟3



鰹船1、網船4、地網船1、鰹地船1、網7(8力)張
小魚舟5、地引舟4、網手4、飼取4、市艇1、地引1、網10張
網1張
湊浦往来ノ舟也
鰺網3張
網2張
鰺網1張