宿毛市史【近世編‐教育‐藩政時代の教育】

留学生ほか

華岡青洲(1760〜1835)は日本の外科学の一大革新者として知られている。麻酔薬を使用して手術を行なって医学の進歩を促進し、紀州侯の侍医となり天保6年10月2日病没したのであるが、平山本塾の「春林軒」と大阪分塾の「合水堂」への入塾者はその死後も多かった。
土佐からの入塾者は『医聖華岡青洲』にのっている門人録によると87人であり、その内宿毛からの塾生は次の人々である。
  文化11年(1814)3月19日  林  太安
  文化13年(1816)3月19日  竹場俊吾
   同年       4月26日  本山左中
  嘉永 5年(1852)4月17日  中屋玄助
  嘉永 7年(1854)6月28日  本山猪計
  安政 6年(1859)4月10日  三好有省
以上6人のうち、最初の林太安なる人物については何の手がかりも得られない。林家に関係する者であろうという位である。2番目の竹場俊吾は安政地震の際は宿毛本町に住居していたのである。その子或は孫は愛媛県に移っているのであるが、俊吾の墓は探しあてることができない。系図によると前3代の墓は城山にあって明らかであるが、俊吾とその子の墓がわからない。
本山左中は系図によると佐仲茂友で「文化13子年正月28日家業修行のため上京の趣奇特に思召され銀2枚遣わさる」(本山家系譜)と記されているが文化15年2月25日卒となっている。本山猪計はのち以慶如茂と名乗った。「弘化4年(1847)3月15日医術修行のため長崎表へ罷越したく200日御暇を願い出足、8月5日帰国」している。ついで嘉永7年6月14日には「このたび医術修行のため摂州大坂住、花岡準平方へ罷越したく日数150日の御暇の上今日大島浦より与州中島真吉船にて出帆、同年9月27日帰国」(本山家系譜)とあり、墓は西山墓地にある。彫塑家本山白雲(1871〜1952)はその子孫である。
中屋玄助は士族年譜にも出て来ないが、恐らくは幡多郡北部の出身で平田村から大島へ移った庄屋に中屋があるので或はその一族であるかも知れない。三好有省は安政の宿毛地図に三好徳馬の名があるので、同一人ではないかと思う。医は羽田文友に学び、有の1字をもらって有省とした。酒井融も文友の弟子で、はじめ友慶と号し、機勢隊に属して北越に出陣しているのである。奥内郷の大井田正水も文友の弟子である。三好氏の子孫は健在であるが戦災で一切の資料を焼失し、先祖の墓を集めて代々の墓としたので、よるべき何物もない。神式であるため過去帳もないので調査も手につかないのである。
緒方洪庵(1810〜1863)の塾生に宿毛の立田春江がいる。文館の句読役になっているので同項を参照のこと。後の小野義真である。
他に医を業とした者で河野道兼は小筑紫村に住み羽田文友に学んだ。山下重旭は代々医を業とし6代目であった。山下剛庵、朴庵、剛琢等代々の墓は城山墓地にあり、近藤隆庵も同じく城山に墓があるが、その子範斎は維新後日新館の教師をもつとめた。