宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】
宿毛機勢隊の凱旋


宿毛機勢隊帰陣名簿
宿毛機勢隊帰陣名簿

9月28日には荘内口の諸藩兵と鶴岡まで行き、10月5日本藩兵と共に帰路につき、14日京都着、ここで酒肴をふるまわれ軍服修理代として兵士一名について二両もらい、18日京都発、24日朝8時半大阪よりタアン号に乗り、25日浦戸へ着いている。30日致道館で本藩兵と共に招魂祭に参加し、12月1日雨の中を船で須崎まで行き、5日朝市山峠で隊列を整え宿毛の練兵場に帰ってきた。
宿毛機勢隊の凱旋について、『伊賀家日記』によれば
同(12月)5日
越後江出兵之面々今日帰陣致し候事、兵隊人数下の通り
羽田  左膳 同   鹿彌 石河  右膳 鎌田  幾衛 羽田団三郎 近藤  義内 斎原  銑治
浜田  謙蔵 黒萩  右中 斎原馬次郎 弘田  泰作 弘田  鈔作 上村  弼次 日野  謙吉
石原  弥平 加藤  虎吾 廣瀬   勇 石河  莞爾 石河  光麿 近藤謙次郎 時岡駒次郎
宗武麻左米 桑原  深造 岡添助四郎 本山  省吾 市川愛三郎 宗武  光枝 中村進一郎
羽田  克治 近藤左馬次 黒萩  貞衛 弘田  壮助 弘田貞之助 浜田  省馬 斎原   暹
大谷  蔵六 岡添只三郎 浜田市左衛門 吉良忠之進 斎原三七郎 押川善十郎 酒井  明爾
松本嘉治馬 倉田五十馬 斎原  明吉 黒川  醇平 竹葉  退蔵 岡本孫三郎 浜田務左衛門
酒井  有慶 三好梅吾郎 田村  峯吉 山本  槇蔵 酒井  半助 太田  石助 長山与四郎
柴岡驥一郎 下村義三郎 野村  常吾 桑原  寅吉 加川林之助 田中亀三郎 和田幸四郎
長山左一郎 岡上  保吉 山本  森衛 横山  安次 山本明一郎 小野  中野  孝斎
田村  勇馬 宮尾  直吉 宮尾忠三郎 早川  元蔵 栗原  徳馬 田村仙次郎 竹田  精蔵
竹山  筆次 今岡  郷助 嶋村  駒吉 萩野  嘉吉 吉松  要吉 長沢  幾馬 宮尾  清八
萩野  幸助 桑田  勘助 長尾左右吉 田村  村吉 黒川  徳次 西尾  純蔵 吉松  俊次
黒岩  辰次 谷   定市 長岡  克次 川嶋  種次 岡崎  脩吉 中町  兼吾 沖   大次
秋沢  弁次 桑田  只八 坂本  喜八 竹村  五郎 平井  浦次 原   丈次 嶋岡  逸馬
岡崎栄三郎 川嶋  永馬 宮尾  喜蔵 津野  嘉助 萩   鎌吉 柏原  辰次  
右人数の内沖大次義は重症に付柏崎病院に入養生中、桑田勘助義は右看病として同所へ残しこれ有也。
右の面々10月5日羽州庄内城下発足、11月18日京都着、同19日兵隊参朝、同20日京都発足、同21日大阪着、同24日同所乗船英国船也、同25日高知着、致道館に於て、太守様御出張被遊御目見えの上御酒頂戴被仰付御暇の上留守屋敷へ帰り候事、同30日兵隊致道館へ出招魂祭を拝候事、今朔日高知発足を以て当日(註、5日)帰着直ちに調練場へ相揃候に付、我等出張相応申聞干肴を以一同酒遣し候事。
一、兵隊首尾能く、帰陣致候に付於奥向一通之祝致首尾よく相済候事。
一、戦争の節分取之品取リ帰り左に記す。
一  釆牌   壱振     一  打刀   三腰
一  短刀   二口     一  小銃   三挺
一  旗    一流     一  金     二分

宿毛機勢隊の帰陣(伊賀家日記)戊辰戦士の墓
宿毛機勢隊の帰陣
(伊賀家日記)
戊辰戦士の墓

     宿毛凱陣之節行列
   隊  長  鎌田  幾衛
   半  司  近藤謙次郎
   右先導  石河  右膳
   左先導  濱田  謙蔵
   総  督  羽田  左膳
   軍  監  石河  莞爾
     〃    中村進一郎
   軍  曹  山本  槇蔵

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         |  太鼓 笛| |   | |  軍監| |   | |器械方| --------------
    先発旗手―|楽隊 大太鼓|−|一中隊|−| 総督 |−|銃瘡者|−|   |−|兵隊病気者|
         |  太鼓 笛| |   | |  軍曹| |   | |小荷方| --------------
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   機勢隊総計一百十有五人許   (土佐藩機勢隊卅番伍長石河光麿源光正記)
北越出兵の宿毛機勢隊関係の戦死者は左の2名である。
 廣瀬為久  通称修。土佐郡小高坂村の人、新御留守居組で機勢隊に属す。
明治元年9月20日出羽関川西山峠に戦死す。年27。
 沖 貞吉  通称大次。足軽で宿毛国老伊賀氏の臣、機勢隊に属す。明治元年9月20日、羽州関川戦争の際重創を受け、11月15日、柏崎病院に於て死す。年27。越後岩船郡勝木村上屋敷各藩墓地に葬る。
伊賀陽太郎は9月には江戸に出、更に荘内に進み、10月26日再び江戸に帰った。
明治元年の『伊賀家日記』によると
  11月6日
  一 高知より飛脚到着、羽州庄内より御使者便に、同所城下より10月2日出し太郎左衛門方書状ならびに家来共より紙面相達し、自家兵隊も戦争致し、庄内内伏うちぶせに相成候趣掛合越候事
       11月13日
  一 自東京太郎左衛門方書状並万彌(竹内綱)よりの紙面相達し、先月26日東京着の趣左右相達候事