宿毛市史【近代、現代編-中央で活躍した人々-宮地久衛】

宮 地 久 衛(1876〜1939)

軍人、社会事業家。明治9年11月6日重政の長男として小筑紫村田ノ浦に生まれる。久衛3才の時母の離別により祖母寅(大島村濱口新兵衛妹)に育てられた。祖父重勝は、もと幡多郡津ノ川の郷士であるが安政3年(1856)伊賀家に仕え、田ノ浦・津(都)賀川両村の庄屋及び戸長を勤めた人である。明治25年7月中村小学校高等科卒業し、同年9月高知海南学校に入学したが学資が続かず、2年で退学した。明治29年入営後、陸軍士官学校、騎兵実施学校などに学び連隊副官、師団副官、陸軍通信学校軍用鳩研究会幹事などを歴任して、昭和3年陸軍大佐に進み、騎兵第一連隊長に補せられたが、同5年8月待命となった。
この間大正9年帝国公道会に入り、同10年公道会副会長大江天也の死後は、軍務に精励する傍らその意志を継いで融和事業に尽し、昭和2年財団法人中央融和事業協会の融和部長となり、退官後専ら融和運動に身を投じ、融和講習会の講師となって全国をまわり、昭和5年には、東京府多摩村に「兄弟荘」を建て、同7年東京社会事業協会融和部長となった。また移民問題調査のために満洲に渡り、匪賊を帰順せしめて家理教(チャリ)を助成指導し東光会を設立するなど日満の融和親善を計り、移民による融和事業の拡大強化に奔走し、昭和14年2月18日東京で没、62才。
昭和16年11月多摩村船ヶ台(兄弟荘)に全国有志の発起により、一丈三尺の「宮地先生留魂碑」(題字前内閣総理大臣勲一等平沼騏一郎)を建て、同18年『宮地久衛大佐伝』が刊行された。