宿毛市史【近代、現代編-交通土木-海上交通】

沖の島、鵜来島市営渡船

沖の島、片島間の航路には、大正の初めより、幡多汽船株式会社の幡西丸が就航し、その後土佐商船株式会社の三洋丸、土予汽船株式会社の大和丸、豊国丸、芙蓉丸と続き、沖の島及び大月町沿岸の人々に利用されていた。(方島中学校編郷土史による)
他に柏島郵便局が昭和18年6月21日から船による柏島、宿毛問の郵便逓送を始めたのでこの船も利用されていた。
戦後は土予汽船株式会社の九島丸が沖の島、片島間を運航したが、この九島丸も、柏島、片島間で大月沿岸の乗客を、柏島郵便局の郵便船春日丸、土佐商船株武会社の新高知丸と争奪することとなり、その上沿岸各地の人達にパス利用者が増えて来たので九島丸の乗客が少なくなった。
そこで23年頃より九島丸は実質不定期となり、24年柏島の岡崎商会が土予汽船株式会社の航路権を譲り受け、九島丸に代って郵便逓送を兼ねた福久丸を就航させた。
しかし従来、大変不便を感じていた沖の島村民は、この不便解消を県に訴えたところ、県は昭和25年10月、木造船あがた丸(40馬力、総工費133万円)を造り、赤字のできた場合は補てんするという契約のもとに、沖の島村に無償で譲渡した。
そこで沖の島村はこれを村営として、26年8月から毎日1往復、母島、弘瀬、母島、柏島、泊浦、片島の航路を開いた。然し赤字が続いたので、28年20万円、29年30万円を県から財政援助をうけている。29年3月、町村合併で宿毛市となり、村営を市営とした。
その頃鵜来島は定期船の運航がなく、わずかに沖の島の郵便船かもめ丸が2日に1回来ていた。然し舟が小さいので欠航が多く大へん不便を感じていたが、土予汽船の航路を継承した柏島の岡崎商会が、31年11月沖の島経由鵜来島へも三島丸を就航させたので幾分不便は解消された。
32年5月、県丸の代船として、70馬力の焼玉式内燃機関を備えた26.63トンの木造船県丸がつくられ就航することとなった。県補助は百万円で総事業費の約3分の1であった。
このように県丸、三島丸と就航していたため市も岡崎商会も欠損続きであった。そこで市は36年県丸を岡崎商会に委任することとし、岡崎商会は35年5月宿毛巡航有限会杜を新しく設立して、11月7日より県丸、みしま丸、福久丸、予備船かすが丸を使用して、母島、鵜来島、弘瀬、母島、柏島、一切、安満地、橘浦、泊浦、竜ヶ迫、片島の航路の運航を始めた。然し船が小さいので少し波があると欠航することが多く、大きい鋼船の就航が要望されていた。この要望にこたえ38年4月には、62.56トン、推進力180馬力、定員40人の鋼船すくもを建造し5月より運航した。
39年9月宿毛巡航有限会社の代表者が死亡したのに伴って、会社が解散となった。そこで市はこの航路に離島航路整備法の適用をうけ航路を継承し、すくも、県丸を就航させた。
42年12月県丸の代船として、おきのしま(鋼船、67.74トン、デーゼル機関65馬力、定員65人)を総工費2,910万円(内県補助800万円)で建造し、航路を片島−竜ヶ迫−橘浦−安満地−柏島−母島−弘瀬−鵜来島−片島と、1日2往復することとした。
48年1月すくもの代船(鋼船97.77トン、750馬力、定員108人)を総工費6,352万円(内県補助金2,200万円)で建造し就航させた。
48年3月沿岸便廃止となり、現在は朝は片島−鵜来島−弘瀬−母島−柏島−片島と運行し、午後は片島−柏島と逆に運航している。
最近の利用者のうち片島乗船者は49年度は29,602人(島民12,923人、市内320人、市外12,537人)50年度は29,284人(島民12,798人、市内4,100人、市外12,386人)となっており、年間平均して乗船者がある。これは船が大型化して欠航が少なくなったことが原因と思われる。
又市外の人の乗船者が島民と同じ位あるのは、最近の磯釣りブームで、磯釣り客の多いことが原因である。特に8月の乗船者が多い一時赤字に悩んだこの航路も、今は健全な経営がなされている。

すくも(市営渡船初の鉄船) 市営渡船 おきのしま
すくも
(市営渡船初の鉄船)
市営渡船 おきのしま