宿毛市史【近代、現代編-交通土木-片島の開発】

片島の開発

片島開発の基礎
清家忠次郎墓
清家忠次郎墓
宿毛市の海の玄関片島港は、明治になってから開発された所で、昔は無人島であった。
古老の話によると、幕末の頃この島には伊賀家の御船倉、御鳥場があって、夜5時になると通行を禁じたと云うから、この島の開発は伊賀家が許さなかったものと思われる。(方島中学校編郷土史による)
この島に初めて開拓の鍬を入れた人は、伊予国北宇和郡下波村(現津島町)の庄屋であった清家忠次郎で、明治7年5月入植したといわれる。
当時片島は、宿毛湾に浮ぶ一孤島であり、海岸近くで、いわしやきびなごなどがとれたというから、漁業を行いながら開拓の鍬を進め、田、畑をひらいていったものと思われる。
郷土の先覚者林有造は、宿毛の発展は片島に宿毛の外港を造る事にあると考え、明治18年岩手の獄より解放されて宿毛に帰ると宿毛片島間に堤を造り、海水を締め切ると同時に道として利用する工事を始め、20年4月に宿毛片島間が結ばれ、ここに発展の基礎ができた。

片島の塩浜
林有造は宿毛片島間を結ぶだけでなく、現在の片島中学校の西の所より小深浦土手に至る堤を造り、海をしめきって、新田を干拓する事も同時に計画していたわけである。(新田開発の項参照)
この工事には平井友蔵、坂本林爾、菊地清三郎、杉本治三郎、岡添寅蔵の5人が、特に協力したので新田の潮止めが出来た時点で、報酬としてこの土地の中よリ七反歩を抜き、有造が二反歩あとの5人にそれぞれ一反歩ずつ与える計画であったが、新田を有造1人が所有することになったので、5人に一反歩づつ抜き与えることは面白くないと考え、百円づつを与えることを考えたが、それよりも、片島に(現塩浜といわれている所)五百円もだせぱ、五町歩余の干拓が出来る土地があることに目をつけ、ここを干拓して、一町歩ずつ前記の人に与えることとし、工事を進め完成させた。(完成年次不詳、明治20年から21年頃と思われる。)
ところがこの土地は水を得ることが出来ないので、塩分を取り去るのに都合が悪かったのであろう。徳島の人秋本常太郎が有造にこの土地を塩田にすることをすすめ、平井友蔵外4人の者も有造に塩田経営をすることを勧めたので、平井友蔵外4人の人たちには百円づつを与え、有造は秋本との組合企業として塩田をつくることとした。
そこで秋本は徳島県撫養より、浜子等約30余人を招いて塩田を造った。(林有造日記による)これが現在いわれている塩浜である。古老の話によると有造は、長屋をつくりそこに浜子達を住まわせていたという。また浜に海水をひき入れ、海水を撤いては塩分を砂に付着させ、かきあつめてこれをこし、釜で煮つめていたと云うから、この塩田は瀬戸内海で昔より行なわれていた入浜塩田であったと思われる。
塩田は当初は盛んに行なわれていたが、明治40年頃打切りとなった。
それはこの付近が雨量が多いことと、松田川の川口のため海水の塩分の濃度が薄いので塩田としての効率が悪かったのではないかと思われる。

桟橋の構築
埋め立てられた桟橋付近
埋め立てられた
桟橋付近
有造の努力により明治20年に堤で宿毛と片島が接続された。続いて有造は明治24年宿毛汽船株式会社を設立し、高知、片島間に汽船を就航させた。このことが始まりでその後南予、宇和島、大阪方面、宮崎、別府方面、沖の島及び沿岸に航路が開かれ、戦争や陸上交通などに影響されて栄枯盛衰を経て今日に至っている。これらの詳しいことは海上交通の部を参照されたい。
明治30年代になると片島は船の出入が多くなると共に、物資の集散地として繁栄を初めた。明治35年堤の内側に道ができると同時に片島宿毛間が県道となり、続いて港に通ずる掘抜きが掘り下げられて三間の道路が出来たので車の通行も便利となり、港は急激に発展していった。
しかし当時は港の設備が不備な上に、海岸には岩礁があったため、沖に停泊した船と、はしけでいききするという不便さは解消されていなかった。
清家要蔵等はこの事が片島発展を阻害していると考え、港の改良を思いたち、現桟橋付近約1700坪の埋立工事を企てた。しかし当時は、片島港付近には、網代あじろが多く、埋立によって網代が破壊されることを恐れた漁民より猛反対をうけた。当時桟僑の必要性を痛感していた宿毛の北村力馬等は町民大会を開き、賛否を町民に問うたという。
要蔵等は、漁民の猛烈な反対を押し切り、県にも働きかけて、大正元年から、2年かかってやっと許可を得、工事に着手したが、土木技術の発達していない当時であったから、人夫3、40名を使い、土を船で運んで埋立をするというような大変な難工事であったが、大正3年8月総工費3万5、6千円で、総面積1700坪の埋立が完成した。(方島中学校編郷土史による)
桟橋付近の埋立ができて便利となったので、ますます船の出入が多くなった。大正13年11月宿毛桟橋株式会社が出来て、浮桟橋を造り桟橋業並に貨物運送、仲仕等をはじめた。この事により、船の発着が大へん便利となり大阪商船の汽船なども接岸できるようになった。
浮桟橋は現在も使われているが、この桟橋は、当時塩浜にあった佐々山製材工場で製作されたものである。この桟橋は厚板でできた大きな箱であるが、この箱を補強するのに、箱の内側には直角に曲った松材を船の竜骨のように使ってあると云う。直角状に曲った松材は、めったにないため探すのに苦心をしたとの事である。又腐朽を防ぐため吃水線下には銅板をうちつけてあるという。

埋立工事
桟橋が出来て港が活況を呈してくると、港と町の整備をする必要が生じてきた。そこで清家要蔵、山口佐太郎等が相図り、現在の片島診療所の地先海面の埋立を計面し昭和12年に許可を得て昭和13年8月に埋立が完成したので、漁船等の岸壁けい留が容易となると共に、商店建築も進み町の形態が整ってきた。
これと同じ頃、宿毛の開業医大井田正行氏が塩浜の埋立を行なった。大井田氏はかねてより野中兼山の遺徳を慕い、宿毛発展の基礎を築かんものと考えていたところ、塩浜の塩田あとが林家より売りに出されたのでこれを買い取り、商店街及び住宅地の造成をして、片島発展に寄与しようと考えた。
当時塩浜は、葦が生い茂り、水鳥の遊び場となっていたが、昭和12年9月埋立許可をとり工事に着手した。埋立の土は港に通じる掘抜き付近の土をとり、12月末日工事を完成した。そのため掘抜き付近が広くなって便利になると同時に、宅地の造成が出来、塩浜も埋立てられた。
この工事と同時に都市計画として、掘抜きより一宮神社前に至る幅員6メートルの道もつけられた。これが後に県道となってバスもこちらを通るようになったので今までの道は裏道となった。
その後大井田氏は、大深浦、宇須々木方面の交通が現在の片島中学校の山手の狭い道を通る小道しかなくて不便であるのを見て、これを解消しようと考え、塩浜埋立によって得た利益金を充当して、昭和13年1月塩浜よリ忠田に通ずる堀抜き工事に取りかかった。
この地点は山が高い上に、岩盤が堅かったので難工事であリ、請負者が途中2回も放棄して3回目に直営でやって、13年7月16日に完成した。そして工事の延長として忠田の埋立も行い、大深浦、宇須々木方面とは、忠田まわりで通ずるようになり、道幅も広くなったので車馬の通行も可能となり、大変便利となった。
また桟橋の埋立の北側の大谷前は遠浅となり、船のけい留などに不便であったので、奈良馬次、増田徳衛、山県省三、小野熊治等の協力により埋立てられ昭和14年に完成した。昭和16年4月には片島の西側(測候所の下)興亜新開地が泥谷俊壮、平田徳太郎、清家常太郎、兵頭健吉、河野清、河野長太郎などの努力によリ完成し、港より忠田経由、大深浦、宇須々木方面に至る道が完成した。また、昭和15、6年頃、現在の滝本製材の所が埋立てられている。

片島発展の経過
片島に初め開拓の鍬を入れたのが、清家忠次郎で明治7年のことであったが、その後忠次郎を頼り、明治18年には末広寅吉などが移住している。
その後塩田ができて戸数も多くなっているが、明治20年より30年に至る県の統計によると片島の戸数はつぎの
とおりである。
片島の戸数(明20〜30年)
戸数 6 9 6 8101010 9 9 915
2021222324252627282930
明治21年頃塩田ができて戸数も多くなっているが、29年頃まで殆んど増減がない。しかし明治20年代には、片島へ船が寄港するようになり、30年になるとだんだん多くなっていったので、それに伴って人口も増し、明治30年代前半の頃は70戸程になった。
明治37、8年頃片島宿毛間が県道となり港に通する掘抜きが掘り下げられ、三間の路ができたので、人力車や、馬車、荷馬車の通行が便利となり、港の利用がますます増えると同時に、40年代になると、120戸程に増してきた。(方島中学校編郷土史)大正3年岸壁造成埋立工事が完成し湾に突出した埋立ができ船の接岸が容易になり、そのうえ船の便がよくなったので、宇和島方面、高知方面、沿岸航路と船の往来がはげしくなり、商家の数も増えて行った。
宿毛小学校編集の『郷土研究』によれば昭和6年の片島の業態別戸数はつぎのようになっている。商業53、工業14、農業9、水産業11、交通業11、公務自由業5その他有職59、無職15、計185。
 業 態 別 名 ( 商 業 )  戸 数
料理店 6 軒
海産物店 5 軒
木炭店 4 軒
売薬店 酒店 果物店 旅館 学用品店 雑貨店 各3軒
金物店 化粧品店 履物店 理髪店 米穀店
菓子店 裁縫店 珊瑚店
各2軒
呉服店 材木店 醤油店 錻力細工店 各1軒
昭和3年頃より連合艦隊が宿毛湾に入港するようになり、艦に積み込む物資の交流や水兵の上陸などもあって急激に活況を呈してきた。そこで港の整備と宅地造成に迫られたので昭和12年頃より港や塩浜などつぎつぎと埋立工事が行われ、港が整備されると同時に、家がつぎつぎとたち始めた。また昭和13年に軍用道路も兼ねて宿毛、片島間がコンクリート補装が始まり16年に完成して、交通運輸の面で便利となったので、発展にますます拍車をかけた。
しかしその頃を境として戦火が拡大するにつれて、経済活動を圧迫し、昭和18年には海上輸送も統制されて制約をうけるようになリ、一時停滞していた。
終戦後経済活動が旧に復すると片島はまた活況をとりもどし、旅客船、貨物船の発着が多く、人の往来はもちろん木材、木炭、海産物、農産物などの移出港として、又生産資材、消費材の移入港として、県西部の交通の要衝となった。ところが陸上交通が整備された昭和30年代後半から、物資の輸送を陸上交通に奪われだんだんさびれていったが昭和46年より宿毛観光汽船会杜が、宿毛佐伯間にフェリーを就航させてから、また活況をとり戻し、港湾整備や山の切取りによる宅地造成なども、つぎつぎと行われており、宿毛湾総合開発の基地として、ますます発展しようとしている。
 戦後の戸数及び人口はつぎのようになっている。
  昭和30年  539戸  2,362人

現在の片島港
現在の片島港