宿毛市史【近代、現代編-農業-農民の生活】

生産活動の苦心と変遷

明治時代に於ても農民達はできるだけ、収穫をあげるべく努力をしたが、土地がこまぎれになっていたり、所有地がとびとびになっていたり、道路などの整理が出来ていなかったリして、労多くして益が少ないような状態であった。農民として特に気をくばったのは、肥料・病虫害・水利の問題であった。

  肥 料
明治の初めは化学肥料があるわけではなく、肥料は、堆肥・厩肥・人糞尿・草木灰などが主なものであった。
明治の初期には各部落には野山(萱芝山)といって共有の焼山があったが、この焼山はかやぶき屋根の材料となるかやを得る場所となったり、炭俵をつくるだすがやを刈ったり、種々に利用されたが中でも大事な事は、ここに生えた草木を肥料とした事であった。部落の人達は旧正月が終ると共同で他の山へ延焼しないように火道をきり早春(3月頃)山頂の方から火をつけて下にむかって焼いていった。そうして焼き払った山にはかややわらぴなどが繁茂した。そのかややわらぴ、木の芽等を刈りとって、牛馬の飼料とすると共に、牛舎の中にいれてこれをふませ、各家々にあった堆肥場(肥納屋)や、庭のすみなどにこれをつみあげて蓄えておき、田畑にいれて肥料としたのである。又草をそのまま野原につんでおき、これをこまかくすさきり等で切っては田に入れ、又畑などの敷草としたのである。田に入れたこの草をカシキといったが、これを入れると稲が丈夫に育ち、その頃予防法がなくて恐れられていたいもち病にかかる率が少なく、収穫も増したのであった。
この草刈りは山間の農業者は山に近く、比較的便利であったので1日に6荷の草をかるのが1人役とされていたが、山から遠く離れた農家は大変であった。例えば山奈町長尾部落の人達のように草刈りに行くのに近い所で2、3キロ、遠い所では4キロ以上も行かねばならなかった。草刈りは5、6月頃が主であったが、その時期はたくさんの人が草を刈るので、終りの方には山の高い所、奥地などへ行かなければ刈ることが出来ず、夜があけるとすぐ出かけていったけれど、昼までに1荷か2荷の草を刈るのがやっとであった。このように野山をもっている人達は、草刈りに精を出したけれど、野山に恵まれない宿毛近辺や、林新田の人達は、専ら商家の人糞尿をもらい、これを肥料としたのである。又宇須々木・藻津地区の人達は、人糞尿(ダル)積専用の船をつくり、農閑期に天候を見ては帆をかけ櫓をこいで、はるばる柏島までダルをとりにいった。明治の初年から大正初期までダル取は続いたが、明治40年頃には藻津で4そう、宇須々木で4そう、樺・大深浦などに数そうあり、これらの舟はとってきたダルを、それぞれ部落の海岸付近に溜をつくって貯えたのであった。宿毛付近のダル貰いにしても、柏島付近のダル貰いにしても野菜や、米・雑穀・薪炭などとの物々交換であり、柏島の場合は、薪に不便したためか、束木1荷でダルが3荷もらえたそうである。
柏島のダルは魚の臓物や頭などを入れていたので、大変肥ぎきがよく、これを田はもちろん麦肥などにしたのであるが、大正の初め頃は麦は一反で作柄のよい時は8俵もとれ、60俵も収穫した人がいたようである。
又小筑紫地区などでは、魚の臓物・頭・骨などを腐らしたものをわた肥といったが、これを取扱う業者がいて漁師部落よりわた肥をとりよせ、これを農家に売っていたようである。化学肥料は過燐酸石灰が明治19年にアメリカから、明治29年に硫安が輪入され32年肥料取締法、41年改正肥料取締法で粗悪肥料の横行を取締っているがまだ量が少なかった上に、価格面輪送面から宿毛あたりでは普及するにいたらず、わずかに石灰などが使用されていたに過ぎない。

  病虫害防除
稲の病虫害として一般的にしられている病気には、いもち病があり、害虫としてはうんか、二化めい虫等があげられる。いもち病は多雨で気温が低い時に発生を見ることが多く、又山間の清水を田にひいている所に多いが、当時はこれを予防する方法がなく、又うんかの発生した時は明治から大正にかけては田へ石油をいれ、稲からたたき落して駆除するより方法がなかった。特に稲が成熟期に入り田に水がないような時に発生した秋うんかはたたけばいねが倒れるし、又水がない場合が多いので石油なども使用で乏ず手の施しようがなかった。
又二化めい虫の被害も大きく、稲穂のもとに喰い込むめい虫は、苗代時期に卵や蛾をとって殺すことと被害稲茎を切りとり焼いたり、稲の刈り取り後10月下旬より11月上旬にかけて、稲株中にせん伏しているめい虫を、鋭利な鍬で切りとって、稲株を焼いたりして、越年するものを駆除したが、見渡す限り白穂の波という大被害をうけたこともあった。
当時うんかやめい虫などの適当な殺虫剤がなく、虫が発生すると手の施しようがなかった。そこで気安めとも思われる虫送りの行事が行われた。先づ神官に祈念してもらい、祈念してもらったお札を村の青年や子どもたちが竹の先につけ、鐘や太鼓をたたいて田のあぜ道をまわり、最後には川などに流したのであった。
小筑紫町伊与野地区などでは、虫送りのことを火送りと云い、田植えが済んだ頃、各農家より反別に応じて枯竹を集める一方、2人の代表を篠山につかわし、虫退治の祈念をしてもらうと同時に、用意していった火繩に火をつけて帰リ、これを火種として、各農家より持ち寄った竹に火をつけ、夜間暗くなってから夫々の田の畔道を廻り、最後は湊の橋の所に集合し、この竹を川に流して火を納めるという事が行われていた。これは蛾や虫が火につく習性を利用して、その火で焼き殺すという生活の知恵から生れたものであろう。愛媛県城辺町あたリでも、このように篠山の火をもらってきての虫送りを行なった事が、『城辺町誌』に見られる所を見ると、伊与野だけの行事ではなかったと思われる。

  水利事業
日本の農業の中心は、昔より水田稲作経営である。水がないと水田稲作は出来ないから、先づ水を得ることに意を注がねばならない。また水は気象条件に大きく左右されて、雨量が多ければ水害をおこし、少なければ田が干上って干害となるということから、農民は気象条件には一喜一憂する弱い存在である。そこでこれらの弊害を最少限に食いとめると共に稲作経営を安定させるために、自然をうまく利用して水の制禦、調整をはかる努力がなされている。
水田稲作のため水を得るのには、川水を利用する灌漑と、山裾などに湧き出る湧水を利用する灌漑とがある。
川水を利用する場合、山あいの谷田などは高低差を利用して川から直接竹どいなどをかけて灌漑したり、溝で水を導き灌漑したりしているが、川の下流の方へ行くと、田より川の方が低いため水を田に引くことが出来ない。そこで川をせきとめて井堰を築き、水を貯めて水位を高め、たまった水を用水路に導き下流の田へ灌漑する方法がとられており、用水路の近くで用水路より高い所は、水車による水のくみあげなども行われた。
湧き水による灌漑は、千害の恐れが多いから、山の小さい谷合などを利用して土手で谷をしめ切り、これに谷川などから水を引き入れて水をためておく溜池を作り、渇水時にこれを配水して灌漑する方法がとられ、現在も行われている。
井堰により灌漑が行われている所は、松田川、福良川、伊与野川流域で、谷が浅く川の小さい地域である愛媛県境沿いの小深浦から藻津に至る地域や、押ノ川、山奈町、平田町などには溜池による灌漑が多い。
これらの溜池や井堰は伊賀家3代節氏公(1633〜1698)の頃作られたものが多く近世編節氏公の事蹟記載のとおりであるが、大部分のものがそのまま残り現在も使用されている。
その外に洪水を防ぐためには堤がいるが、節氏公の時代に、多くの堤が造られており(節氏公の事蹟参照)。野中兼山の造った河戸の堰、宿毛総曲輪などと共に古くから作られていたことがわかる。このように昔から、灌漑に対する努力、洪水・干害に対する工夫がなされており、干害などの時は田の端に井戸を掘ってその水をくみあげて灌漑したり、川や沼などから水をくみあげて灌漑したのであった川から汲みあげるのに小筑紫町伊与野部落などに例をとって見ると、伊与野部落の人達は水汲みを共同で行った。部落から屈強の男達が出て、たごの両わきに長い綱をつけ、この2人が力をあわせてひきあげるようにしてくみあげるのであるが、しかも両側にあぶみをかけ3組が内組・中組・外組と右左に2列に並び、かけ声をあわせて一緒にくみあげた。それで呼吸があわないとたごとたごがぶっつかりあって水がこぽれたり、たごがいたんだリするので呼吸をあわすのが大変であった。仕事中は力を抜くことも出来ず大変な骨折り仕事で交代を待ちこがれる程であった。そこで交代時間の正確を期したいのだが時計がない時代のことではあり、線香を一定の長さにしておき、その線香をもやし燃えつきた所で交代した。福良部落もこの方法が行われていた。溜池から配水する場合は、池の水を酬水する当番がおり、その当番が配水するのに気を配っていた。水配りも池に近い田は水が得やすいが、池より遠い下流の方の田迄はなかなか水がまわりにくく、時には水争いもおきた。山奈町山田では農家戸数が多い上に、池が少ないので配分の方法がなく、水の取合いでたえず見まわりをしないと、他人にあぜをきられ、朝行ってみると、干あがっていたというようなことも多かったそうである。溜池の貯水量の多い所は水の不便を感じなかったが、少ない所は水の奪い合いをすることが多かった。
又松田川流域の奥奈路、平野ひらの、和田、小川などでは用水路に水車をおき、これで上の田に水を汲みあげていた。最近では動力ポンプで汲みあげるようになって、だんだん水車も野井戸も川水汲みもなくなっていった。しかし溜池よりの灌漑や井堰による灌漑は今もなお続けられている。
国は水の制禦調整事業には力を入れ、法律を作ったり、治水工事に力をいれたりしてきているが、明治23年に水利組合条令、29年に河川法、32年に耕地整理法、41年に水利組合法、42年に改正耕地整理法を制定している。

溜池(小深浦) 伊与野川 水車
溜 池(小深浦) 伊与野川 水 車