宿毛市史【近代、現代編-林業-木炭】

木炭

木炭は昔は銅や鉄の生産などに利用され、建築様式が進歩してくると煙が出ないため炊事、暖房用に重宝がられるようになり木炭の需要が増していった。そこで江戸時代には各藩は競って炭をやき、藩の財政の柱としたので木炭は急速に質量ともに発達した。土佐藩では紀州より優秀な製炭法をとり入れ木炭生産に力をいれていたが、日本木炭史には、天保から嘉永にかけて年々60万俵もの炭を京阪から江戸、また遠く九州一円にまで移出し、天保7年の記録では筑前国で土佐炭1俵670文、日向炭1俵490文で、日向炭より1俵で180文も高く売られているとあるところを見ると、質量共に秀れていたことがうなずける。『土佐州郡誌』によると幡多郡では中半村、山田郷、平田村などが木炭産地であると記されているので、宿毛付近も木炭生産がなされていたことがわかる。
宿毛市でも明治以降盛んに木炭製造がなされていたことが伝えられているが、生産額を示す資料を見つけることができないので、(高知県全体についての統計を『日本木炭史』より抜粋して見ると、一番古い統計は、明治7年で、245万435俵であり(1俵何貫かわからない)明治12年より大正15年までの生産額はつぎの通りである。

高知県の木炭生産高
年次 数 量(貫) 金 額(円) 貫当金額(銭)
明12 4,529,761 93,306   2.1
38 11,045,910 558,079   5.3
39 11,774,073 806,265   6.8
40 9,877,548 543,007   5.5
41 12,824,117 900,436   7.0
42 10,374,318 660,562   6.4
43 10,952,427 740,251   6.8
大元 10,908,710 951,909   8.7
11,948,775 972,788   8.1
9,857,016 747,012   7.6
13,127,035 953,945   7.3
18,876,042 3,458,917  18.3
10 16,116,721 4,769,430  29.6
11 17,046,181 4,427,314  26.0
12 15,049,899 4,017,635  26.7
13 16,122,992 4,210,955  26.1 白   29.3
黒   21.2
その他16.0
14 17,938,372 4,338,041  24.2 白   27.9
黒   17.9
その他15.7
15   18,076,109    3,766,739  20.8 白   21.6
黒   19.3

明治7年は俵数であらわされているので比較ができないが、右の表により、明治12年と38年を比較してみると、生産額、一貫当価格共に2倍以上に増えていることがわかる。これは日清日露の両戦役を契機としてわが国に近代工業が発達し、熱エネルギーとしての需用が多くなったことがあげられる。つぎのブームは大正4年から10年にかけての急激な変化であるが、これも世界第一次大戦の影響で、日本が好景気に湧いた時期と合致し、値段も大正4年は貫当り約7銭3厘であったのが大正7年には18銭3厘と急上昇し、10年には29銭6厘まであがっている。大正に入って幡多郡では木炭の生産及び品質向上に力を入れ、幡多郡内の木炭関係者による、幡多郡木炭同業組合を大正4年4月1日に設立し、木炭の改良、取引上の利益の増進をはかるのを目的として木炭検査所をつくり、検査員をおいた。
検査所及び検査員は下田港2名・宿毛港(片島)2名、小筑紫港1名、三崎港(下川口港)1名、上川口港1名、佐賀港1名、江川崎村1名、大正村1名、計10名である。
宿毛検査所は松田川橋東詰においた。当時は中市より炭の積出しが多くあった関係であろう。
宿毛市付近でも第一次大戦当時は競って炭を焼いたものか、大正12年の小筑紫村事務報告によると「本村の林産物中、主要なるものは薪炭なるも、数年来の濫伐の結果、その生産額とみに減少せり」とあリ、大戦当時盛んに焼かれていたことがわかると同時に、13年の事務報告には「好況時代の濫伐に起因し、目下その産額激減し、ほとんど主要物産とするに足らずして、数年後の繁茂を待つの外なし」という所を見ると、炭焼に適当する山は伐り尽されていたことが想像される。したがって生産額も14年41,445俵が15年には29,860俵、昭和2年26,470俵と年々少なくなっている。
つぎに高知県の昭和元年から23年に至る生産額を農林省統計表によって示すとつぎの通りである。

高知県木炭生産高
年次 産 額(d) 年次 産 額(d)
昭 1 67,785 昭13 84,064
59,809 14 98,306
67,913 15 108,780
78,004 16 10,908
67,035 17 112,541
64,215 18 102,795
65,258 19 102,925
68,843 20 52,323
94,875 21 60,148
10 81,010 22 80,204
11 79,988 23   90,737
12   82,620    

昭和時代になって6年頃より未曽有の農村経済恐慌となったが、木炭においてもその余波をうけて炭価が低落し、製炭者を苦しめた。これを東京市場の白炭卸売1俵単価(15キログラム)で見ると、昭和2年には1円10銭8厘であったものが、7年には52銭2厘となり、8年70銭、9年75銭9厘、10年73銭となっている。この当時高知県では対応策として木炭の品質改良に力を入れ、木炭検査も厳重に行い、不合格品の県外移出はもちろん地方における販売も禁じている。
昭和5、6年度の宿毛木炭検査所月別検査俵数及び不合格品数はつぎの通りである。
      木炭検査数
年 月 検 査 俵 数 不合格品俵数 年 月 検 査 俵 数 不合格品俵数
昭5・ 1 11,521 昭6・ 1 7,563
昭5・ 2 5,068 昭6・ 2 10,158
昭5・ 3 9,402 昭6・ 3 12,118
昭5・ 4 8,084 昭6・ 4 5,601 748
昭5・ 5 6,134 昭6・ 5 7,647 724
昭5・ 6 2,976 昭6・ 6 5,125 82
昭5・ 7 3,370 昭6・ 7 5,250 157
昭5・ 8 6,398          
昭5・ 9 4,156
昭5・10 4,551
昭5・11 9,756
昭5・12 7,128

木炭検査に平行して、各町村では、木炭改良組合をつくっている。宿毛市関係は左の通りである。
    木炭改良組合
組   合   名 事業所所在地 組合員数 創立年月
橋上村 神 有 木炭改良組合 橋上村 神 有 12 昭10年10月
橋上村 出 井 木炭改良組合 橋上村 出 井 25 昭10年11月
橋上村 坂 本 木炭改良組合 橋上村 坂 本 22 昭10年11月
小筑紫村都賀川木炭改良組合 小筑紫村都賀川 昭10年10月
小筑紫村伊与野木炭改良組合 小筑紫村伊与野 10 昭11年 1月
小筑紫村石 原木炭改良組合 小筑紫村石 原 昭11年11月

この当時の小筑紫村の生産状況を見ると、昭和5年度(昭和6年3月末調査)の年産額は31,937円であったのが昭和6年度(昭和7年3月末調査)の年産額は18,200円と激減している。しかし、昭和7年度は66,634円と激増しているが、これは国が農村不況対策として国有林払い下げを行った結果生じたものである。これより13年頃まで6万円台を保っているが、14年にはガソリン代用炭の生産を始めたので生産高180万6,695キログラム、生産額は16万1,775円となっている。
日中戦争が中国全土へと拡大するにつれてガソリンが不足してきた上に軍需用として石炭や石油の需要か多くなったので、これを補うため木炭は重要な戦時物資となり、太平洋戦争に突入すると益々重要性を増していった。しかし一方では木炭生産者の兵役召集などで人手不足から生産減も予想されたので、国をあげての木炭増産運動が盛んとなり女子挺身隊、学生、報国隊による製炭も各地で行なわれた。このように木炭が重要な戦時物資となったので昭和14年に木炭配給統制規則か制定され、木炭の公定価格ができた。それがやがては配給制となって統制が厳しくなり、薪まで統制物資として取扱われた。しかしこの付近の人達は山に近く、自分の持山から薪を自由に伐リ出すことが出来たので余り不自由な思いをすることはなかった。この統制は終戦後も続いたが、ガスや電力の供給が豊かとなり、燃料需給事情が好転したので、24年8月薪の統制が廃止され、25年3月には木炭の統制も全面的に解除となって自由販売が復活した。
終戦後乱伐などの影響で生産が低下したことと、戦後の混乱で闇物資として販売ルートにのらないものがあった関係で統計的には20〜23年頃著しく低下しているが統制が撤廃になった頃より旧に復し110万トンから120万トン台を34、5年頃まで維持し、これよりだんだん減少している。35年は池田内閣が高度経済成長政策をうちだした時代であリ、工業か多数の労力を要求した時代で、都会と田舎で経済格差のついた時代であった。又その一方燃料革命ともいえる液化ガスや電気が各家庭に入り炭を必要としなくなり、炭の価格が安いので採算がとれないようにもなってきたので、山村の人たちは炭焼をやめて都会へと出ていったのであった。
戦後の生産額を農林省の統計表と県の統計で示すと次のようになる。
高知県木炭生産高
年次 産 額(d) 年次 産 額(d)
昭 20 52,323 昭 31 125,763
21 70,148 32 134,519
22 80,204 33 100,157
23 90,737 34 98,316
24 91,842 35   104,604
25 120,481 以上高知県統計
26 127,350  
27 118,548
28 116,987
29 113,297
30   112,942
以上農林省統計
宿毛市についてみるとつぎのようになる。
宿毛市木炭生産高
年次 黒炭 白炭
29 1,192 4,747 5,939
31 2,292 5,392 7,683
33 2,950 3,520 6,470
34 3,721 2,955 6,676
35  4,612  2,684  7,296
44 419 269 688
45 204 94 298
47 173 173
48 59 59
(単位トン)
宿毛市の表で見られるように、40年代に入って急激に減少し、現在の生産量は微々たるもので昔のおもかげはなくなった。今まで利用されていた薪炭林は景気回復の見込みもない事から、大部分が植林地とかわりつつある。

製炭業
炭焼は昔は山村にとっては重要な収入源で炭焼を専業にするものと農閑期を利用して行う副業のものとあった。
つぎの表は、昭和11年度の現宿毛市に相当する町村の、月別生産高と窯数及び製炭従業者数と40年度以降の製炭労務者調べである。

              昭和11年度木炭月別生産高            (単位俵)  
地区 平 田 山 奈 宿 毛 和 田 橋 上 小筑紫 沖の島
年月
11年
  4月
黒    72
白 1,083
48
1,193

553
68
3,293
24
6,491

4,339
50
297
264
11,314
黒    14
白   579
35
1,271

802
38
3,245
24
7,567

4,265
28
437
139
18,116
黒     7
白   644

529

368

1,579

3,075

2,635

272
15
9,102
黒     0
白   398

675

147
33
1,686

4,556

3,832

352
39
11,628
黒    20
白   789

1,429

404
143
2,562

6,882

5,902
109
530
272
23,463
黒     0
白   440

845

348
48
2,567

4,965

2,861

264
48
12,299
10 黒     0
白   442

620

375
94
2,383

7,656

3,804

394
94
15,674
11 黒    33
白   501

222

463
36
1,718

5,341

4,191
49
626
118
13,562
12 黒    19
白   984

1,472

676
88
3,007

8,849

5,557
58
325
165
20,870
12年
  1
黒    66
白 1,464

2,026

654
83
4,354

10,006

7,391
87
486
236
26,391
黒     0
白 1,114

1,679

630
85
3,085

6,928

4,414

432
85
18,282
黒   139
白 1,098

1,479

269
127
3,335

6,957

5,314

571
266
18,843
黒   433
白 9,819
83
13,992

5,716
845
32,828
60
79,273

54,583
381
4,986
1,802
201,127
総計  10,252 14,005 5,716 33,673 79,333 54,583 5,367 202,929

炭窯数、製炭従事者数(昭和11年12月末)
町村名 窯  数 従事者数
白炭 黒炭 専業 副業
宿毛町 15 12
和田村 76 33 45
平田村 34 12 23
山奈村 41 15 26
橋上村 159 128 31
小筑紫村 113 44 53
沖の島村 12
450 238 198
幡多郡計 3234 398 1459 2027
高知県計  5359  6266  2862  8226
  
宿毛市製炭労務者調
       (昭和40年度以降、各年1月末現在)
年 度 専業 副業
主務者 補助者 主務者 補助者
昭和40 53 71 227 274
41 42 51 157 170
42 60 60 259 274
43 34 33 120 91
44 16 14 22 16
45
46 20 15
47 10 10
48 10 12

この表に見られる如く、橋上村などのように耕地が少なく、山の多い所は炭焼を専業にする人が多く、山奈や平田、宿毛などのように田畑の多い所は副業が多い。山奈や平田はつぎの表に見られるように一年中のうちで田植え、いもさし、麦かりと忙しい6、7月頃と稲刈りいも掘り、麦まきで忙しい9、10、11月頃は生産額が少なく、12月頃より、4月頃までの農閑期は生産額が多いことがわかる。
橋上などは、1年中を通じて炭の生産が盛んであるが、それと同時に木炭生産が、農業者の人達に与える影響は大きく、農閑期は、炭の運搬をしたり、ダスあみ、炭なわない、炭焼の手伝い等と、炭に関連して経済活動が営まれてきていた。
昭和11年度月別生産高(平田−、山奈…)
昭和11年度月別生産高
(平田−、山奈…)

白炭と黒炭
炭は焼き方によって白炭しろずみ黒炭くろずみとあり、白炭は堅く焼きあがっているので、燃焼時間が長く、黒炭は比較的柔らかであるので、着火はよいが燃焼時間が短いという欠点をもっていた。古くよりあった白炭を焼く窯は備長窯といって紀州より伝わってきたものであり、よい炭をやくのには永年の経験を必要とするといわれる。前の表に見られる如く、宿毛付近では白炭が多く焼かれていたことがわかる。
黒炭は簡単にいうと窯内の温度が700から800度で赤熱したとき窯口、煙道口を密閉して消火し、三昼夜ほどで窯内の温度が100度位にさがったとき木炭をとり出す。又白炭は、窯内温度が900から1,000度となり白熱するとたき口に近い木炭をかき出し消粉をかけて消火し、又次の部分が白熱すれば同様にかき出して消火する。このようにしてできあがるのであり、白炭はうまめがし、かし、なら、くぬぎなどのような木質の硬い木がよく、黒炭は松やしいなどのような木質の柔かい木が適していた。昭和45年1月31日現在で宿毛市でつくられている炭がまは、白炭では備長横詰式1基と土佐式3基であり、黒炭窯は県1号30基、県一折哀式が3基である。高知県で造られている炭窯は、白炭窯では備長横詰式、土佐式其の地であり、黒炭窯は県1号、県一折衷式、島根八名式、土佐新式、土佐式、大石式、岩手式、福田式其の他である。
白炭と黒炭の生産を高知県全体で見た時、大正4年黒炭562万6,092貫、白炭625万3,813貫。大正15年黒炭589万6,852貫、白炭1217万9,257貫。昭和10年黒炭3万3,371d、白炭4万7,513貫というように白炭が黒炭の生産高よリ多いが、昭和12年になると黒炭4万9,230d、白炭3万3,390dと黒炭の生産高が多くなり、13年には白炭が多いがその後は14年白炭4万5,495d黒炭5万2,811dとなり18年白炭3万941d黒炭(松炭ガス炭等外炭を含む)7万1,854d25年白炭4万2,077d黒炭7万8,404dと黒炭の生産が急激に多くなっている。これは戦争の影響と考えられるが、しかし戦後も続いて黒炭生産が白炭生産高より高くなっている。ところが宿毛市は昭和28年の表にも見られる如く戦後も黒炭生産と比較して白炭生産が大変多いが34年以降黒炭生産が多くなっている。最近は45年の窯の数でもわかるように黒炭生産が多くなっているが産額は微々たるものであり、最近は炭焼きの煙を見ることは稀である。

      昭和28年度月別旧町村生産状況   上欄……黒炭 下欄……白炭        単位s
宿毛町 小筑紫町 沖の島村 橋上村 平田村 山奈村
8,130
96,570
−−−
189,600
−−−
3,915
3,555
152,160
−−−
47,385
39,990
58,254
51,675
547,875
6,045
87,495
4,230
106,290
−−−
−−−
6,930
264,555
−−−
44,475
38,400
43,155
55,605
545,970
9,420
63,000
2,595
104,235
−−−
7,485
7,380
199,500
1,485
46,830
25,995
47,430
46,875
468,480
5,220
37,965
3,345
31,260
−−−
−−− 
3,405
94,170
−−−
33,030
19,065
17,355
31,035
213,780
7,560
47,115
3,315
70,515
−−−
−−−
2,010
111,660
−−−
42,540
29,655
34,230
42,540
306,060
3,375
41,775
4,080
95,520
−−−
5,145
5,295
178,950
1,155
48,045
48,615
32,535
62,520
401,970
10 4,950
56,115
5,880
63,315
−−−
−−−
9,765
237,945
2,700
58,830
53,985
46,875
77,280
463,080
11 6,180
87,900
10,290
126,120
−−− 
7,515
16,170
184,875
4,815
41,010
45,930
56,460
83,385
503,880
12 18,450
56,775
8,520
82,920
−−−
−−−
18,720
204,930
4,980
52,425
39,930
44,595
90,600
441,645
13,055
91,950
12,375
104,250
−−− 
4,065
27,465
287,205
4,335
67,245
66,510
66,285
123,840
621,000
13,170
94,020
22,950
154,710
−−−
−−−
24,645
302,025
5,850
66,045
50,340
59,100
116,955
675,900
19,485
105,795
6,570
157,605
−−−
−−−
22,845
277,650
9,855
62,085
34,005
54,090
92,760
657,225
115,140
866,475
84,150
1,286,340
−−−
 28,125
148,185
2,495,625
35,175
 609,945
492,420
 560,355
875,070
5,846,865

木炭の運搬
炭の運搬は、昔は炭を俵に詰めると、道のそばまで木馬きうまで運んだり、天びん棒でになっては運んだ。そこには大抵炭納屋を設けてあり一時的に収納した。それより片島や、小筑紫の港へは昔は大てい馬につけて運んだ。萩原の人達は与市明のトンネルの上の山(赤松坂)を越えて山北を通り、百日峠を越えて楠山まで行き、馬の背に4俵から5俵をつけ、人は特殊の天びん棒で、体力のある人は2俵をにない、体力のない人は1俵を2つに分けてにない運んだと云う(明治時代は1俵30キログラム)。石原の人達も、同じような苦労をし、兎の走り道のような道を馬につけて運んだ。川に沿って道がついていたが橋がないので、5回も6回も川を渡ったという。1日の仕事は家から小筑紫まで炭を出し、家に帰ってから山へ行って家までとって帰るのが日課だったという。

高 瀬 舟
高瀬船の終点 堂ノ前
高瀬船の終点
堂ノ前
高瀬舟は坂本や楠山にまだ、馬や車の通る道がついていない頃、松田川を利用して、炭を運び出した舟のことである。
古老の話によると高瀬舟は長さ約5メートル、幅70センチの川舟であり、楠山のダムのあたりまで舟を曳きあげ炭を積んで、宿毛まで運んだと云う。炭は1そうに20俵乃至25俵を積んだ。明治37、8年頃、松田川筋には約100そう(橋上15 奥奈路20 神有50 平野10 上荒瀬5)あったという。高瀬舟の船頭は、朝早く家を出て、ろでこいだり、竿で押したり、川岸からひいたりして、楠山まで曳きあげた。舟をあげる時最も難儀するのは堰台である。堰台は急流の所を松の木を横にしてせきとめ、流れをゆるくすると同時に水を貯め、それより樋をかけてあるところで、この樋を利用して舟をすべらせて、あげおろしするところである。あげる時には水の中に入ったり岸からひいたりしてあげるが、おろす時は、積荷を倒さないように用心しながらおろさねばならないので、川の中に入ることが多いのである。松田川筋には17も堰台があり、中でも長尻の堰台は有名であったという。橋上から楠山まで、半日がかりで舟をひきあげ、炭を積んで、橋上まで帰り、翌日は宿毛の堂の前まで出して帰るというのが、日課になっていたという。その頃堂の前、荒瀬、中市には炭問屋があり、ここから炭を舟で積み出していたのである。この高瀬舟での運搬はたいへん骨の折れる仕事であったが、中でも冬は川の水が冷たく特に坂本より上流の水は氷のように冷たくて、身がきられるようであったという。
この苦労も、大正の終りから昭和にかけて道路が開通したので、荷馬車が通るようになり、高瀬舟は姿を消した。昭和10年頃より、橋上農協がトラック運搬を始め、だんだんトラック輸送へとかわっていったが、荷馬車は終戦後も暫くは利用されていた。