宿毛市史【近代、現代編-災害-南海道沖大地震】

南海道沖大地震

昭和21年12月21日午前4時20分、まだ夜の明けない頃、突如大地震が起った。
震源地は紀伊水道沖で、東径135度7分、北緯33度0分、高知県の大部分が震度5で震害は四国、九州、近畿、中国及び中部地方の一部に及び全国で死者1,330、住家全壊9,070、同半壊19,204、非住家全壊2,751、同半壊4,283、流失家屋1,451、焼失家屋2,598。津波は紀伊半島南端で6・6メートル。各地に地盤変動があり、土佐田園15平方キロメートルが海面下に没した。(理科年表)
津波の高さ浦 戸 4・6メートル須 崎  4・4メートル
入 野 5・0メートル下 田  3・0メートル
清 水 2・2メートル古満目 3・6メートル
宿 毛 1・9メートル宇和島 1・3メートル
地盤の変動室 戸  (+)1・2メートル足 摺(+)1・0メートル
高 知  (−)1・2メートル須 崎(−)1・2メートル
小筑紫 (−)0・6メートル宿 毛(−)0・3メートル
(南海大震災誌)
この地震で高知県は最大の被害をうけ、全国死者の半数を出したのであるが、中でも中村市の被害が大きく全壊1,621、全焼163、半壊696、死者273、四万十川鉄橋の橋桁6が落下という状況で、全滅といってよい状況であった。
中村市程大きくはなかったが、宿毛や小筑紫も地震と津波によって大きな被害を受けた。

宿毛町の被害
地震による被害は宿毛の町が大きかったが、津波による被害は大島、片島方面が大きかった。
津波は最高1・9メートルを記録し、大島、片島を経てその奥にある防潮堤3か所を破壊して、林新田その他の田畑に浸水し、道路や家屋も浸水した。
潮は大きな潮鳴りとともにさしはじめ、またたくまに宿毛片島間の防潮堤を越え、やがて貯木場の木材等を流しつつ引きはじめたが海底ははるか沖まで干上ってしまった。干上ったとみるや又も濁流となって押寄せ物すごい流れであったが、段にはならず、こみ潮の規模と速度を早くした様なものであった。大島や片島の人々は地震とともに歩くことができず、ただはいまわるだけであったが、やっと地震がおさまると、津波の来襲をおそれて山上に避難して夜を明かした。夜が明けるにしたがって津波の状況をつぶさに見ることができた。大島小学校では、津波が運動場にも上っていたと見えて運動場一面がぬれていた。2回目の津波が一番高く、運動場に30センチ位は上った様である。校舎の床上には上っていなかった。片島大島間の橋は橋脚がつぶれてこわれかかり、大島には全壊の家もあり、多くの家が浸水した。津波はその後次第に小さくなっておさまったのであるが、被害は相当なものであった。この津波は大島の神杜の石段には上らず、もう少しの所で止った。嘉永の地震では石段が7段つかり、宝永の地震では39段つかっているので、それらの地震の時の津波に比べるとはるかに小さいということになる。
    宿毛町の被害 (南海大震災誌)
1、人の被害死  者  6  
重傷者  4  
軽傷者 54  
2、家の被害全  壊185  
半  壊390  
浸  水520  
3、防 潮 堤決  壊153間 
崩  壊655間 
4、道  路決  壊115間 
5、田  畑田  150町歩
畑   45町歩
焼失家屋、全壊家屋は萩原や与市明にはなく、上町や沖須賀、仲須賀が多かった。宿毛の町の全壊率は
  土居下  3・3%  本 町  6・5%  新  町 11・0%
  真  丁 12・0%  上 町 16・0%  沖須賀 18・0%
  仲須賀 24・0%
山際に近い土居下や本町が被害率が低く、沖へ行くにしたがって高いのは沖ほど沖積平野の厚さが深く地盤が軟弱であることを物語っているのである。
地震によって宿毛方面は30センチの地盤沈下があり、林新田には潮が入って引かなくなり、190町歩が海となって稲作ができなくなった。地盤は地震後2、3か月で4分の1程度回復し、その後も徐々に回復し稲作も大部分はできるようになった。

小筑紫村の被害
小筑紫も津波の浸入を受け堤防は破壊され、浸水のため田畑、家屋の被害が大きかった。その上地震のため流れ出た石油に過って引下し、火災を発生して遂に19戸が灰燼に帰してしまった。地震による全壊は5、半壊は6である。

その他の被害
沖の島村は外洋にあったため津波の被害は全然なく、地震で半壊13戸、その他石垣が崩壊した程度であった。
橋上村は半壊3、山奈村は全壊7、半壊9などが報告されている。