宿毛市史【近世編-伊賀氏-山内一豊と可氏】

可氏と長浜城

天正13年(1585)一豊は江州長浜に転ぜられ二万石を領し、更に一万石の代官地をも支配するようになった。
長浜城は秀古の居城であったときもあり、琵琶湖の東岸にあって、北陸のおさえとなる重要な地点である。城の西側は琵琶湖に面しており、その規模は広大であるが、城の高さは僅か数メートルという極めて低い平城である。
一豊は幼少の頃は各地を流転し、秀吉に従ってからも各地で戦い、ほとんど座の温まる時はなかったのであるが、秀吉の甥秀次が近江八幡に封ぜられると、一豊は秀次を補佐する老臣の1人として、二万石の長浜城主となり以後秀次と行を共にするようになったのである。秀次があまり戦に出なかった関係か一豊もそれ以後はあまり戦地には出ず、5年間在城して政治に力を傾けるのであるが、その間に多くの家臣を召し抱えて家臣団を編成し、今まで四散していた一族の者を呼寄せたのである。
一豊は、岩手城にかくまわれていた姉の通、その子可氏、守就の末子郷忠を長浜に呼よせた。その他、通の子、可代の姉が嫁している深尾重良、一豊の弟康豊、美濃の名族野中家に嫁していた妹の合をはじめ、野中氏の一族たち近親の者たちが相ついで長浜に来たのである。各地に転戦、戦いに明けくれして骨肉の情を味わうことのできなかった一豊であったが、ここ長浜にはじめて一族が会したのである。
可代はこの地で山内の姓を賜わって、山内一門となるのであるが、これについて
『土佐国老年譜』の可氏の条によれば、
一、天正十三乙酉年一豊様江州長浜御城地御入部の節、北方殿岩手より御迎なされ、並に可氏召寄せられ御扶持下し置かれる也、但し年暦員数不詳。
一、山内之御名字拝領の年暦不詳。

とあって、長浜へ行った年月日、その時の扶持、山内の姓を拝領した年月日はわかっていない。とにかく、一豊の姉の子ということで、完全に一族の中に入れられ、以後公式には山内がその姓となるのである。
山内といっても可氏の子孫全員が山内を名のったのではなく、直系の宿毛領主及び、ごく一部の近親者だけが山内を名のり、傍系の者、二男、三男等の大部分は、もともとの姓安東を名のっている。これらのしきたりは明治維新まで続いている。

長浜城跡 可氏、長浜入部
長浜城跡 可氏、長浜入部