宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

篠寺乱入事件

明暦3年7月13日の朝、正木、槇川その他の者合わせて100人余が、木刀、熊手、とび口、棒などを持って篠寺即ち篠山観世音寺へ乱入し、戸板、敷居、鴨居、鍋皿にいたるまで打ち割り、土佐の番の者を打ちたたき、槇川の作蔵は長持の金具を打はずし、中の品々を取り出した。その他、えがま、包丁、まさかり、熊手なども取られ、土佐の番人を、一の王子まで引き下ろすという大事件が起った。
篠川の全事件の中でも、最大の乱暴事件であるが、この内容も、『都築家文書、』『篠山国境論定1』に詳細に記録されているので、『篠山国境論定』によりその内容を左に記してみる。
7月13日、字和島の者篠寺へ参っての狼籍の内容、
一、木屋の西平はた板2問分、はふへかけて打破、板皆うちおち申候
一、南平、しのかべ2間分引こわし申候
一、同北平の角のかべ半間打破申候
一、観音堂2かいの下の大戸1枚打はづし申候
一、客殿の西入口ぬれ縁のはた板2枚打はづし申候
一、こし戸のすだれ2枚引破申候
一、客殿の口内の本戸2間分打はづし打わり申候
一、茶所の口のこし戸の下のはた板2枚打はづし申候
一、茶所の口の本戸2枚かまちを切申候
一、ぬれえんの東の口の戸半間打はづし申候
一、ろうかの立具沖岡1間分打はづし申候
一、くりの南の入口3間分戸板はた板敷居共に打破申候
一、東のわき1間はた板1枚打はづし申候
一、つきにわの南のはた板2枚はづし申候
一、東の入口の大戸1枚なてきねにて打破申候
一、くりへ上り口戸1間分かもい共に打破申候
一、物おきの入口戸1枚打はづし申候
一、めんそうの戸1枚打はづし申候
一、板障子1つ打破申候
一、長持のしろひぢがね、こねはづし、但木刀にて打はづし内の物取出しさがし申候、但槇川村作蔵と申者
一、なべ大小3枚打わる、内1枚はやくらの下になげ出有
一、すりばち1つ打わる
一、こき2つ打割
一、6寸口皿1つ打わる
一、手桶1つ打わる
一、えがま10丁盗取らる
一、包丁2つ同し
一、くまで1つ同し
一、まさかり2丁同し
一、手のごいかけさわ2つ同し
一、さしかさ1本取参候、但辺路屋の下にすておく
一、小刀1本さけさや共にこしはさみへうたん共に、但かねつきせんもん持出しう申候〆戸板はた板共に13間半内3間分戸板打はつす分いたみ申さず残る分は打割申候右の包丁は1つはしんぼち花など取に参候時さし申候、包丁1つは住持みせんなどへ花共かえに参られ候包丁也長さ一尺一寸、
   7月13日   くす山      市右衛門
            同し       弥兵衛
            横瀬村組頭  半兵衛
                          書付
この事件で伊予側は、正木の作蔵が肩を打ち折られた。といい、土佐側は、こちらは少人数そちらは大勢、どうしてそんな事ができようか。痛んでいる者は、こちらに2、3人もいると反論している。伊予側は又、こちらは百姓が参詣に行ったのであるから、侍が行くはずがない。参詣のためであるので、とび口、まさかり、木刀などを持つ必要もない。土佐のいうのはうそだ。とやり返している。

篠寺狼藉の内容、(都築家文書)
篠寺狼藉の内容、(都築家文書)