宿毛市史【近世編-土予国境論争-篠山国境争い】

観世音寺住持の下山

幕府の裁定により、篠山の神主は土佐より出し観世音寺の別当は伊予から出すことになった。そのため今まで住持として、土佐側に味方して働いていた深覚(後の宥栄)は帰る寺がなくなったので、もう国へは帰らず江戸に留まるといいだした。これを聞いた大殿様(忠義)は、深覚と石見寺の住職の2人を呼び出し直々に、この度の忠節、そのかひもなく負けたため、国へ帰らないといっているようだが、国元に於てどのようにでもするから石見寺住職と一しょに帰れ、といわれ、帰って母の里京法村有田九兵衛方へ一先ず落付いた。やがて忠義の世話で磯の川村と横瀬村の境にある高尾寺をもらい堂寺を新築して、ここの住持となって、藩より3人扶持をもらったのである。この寺も寛文10年に焼失、延宝8年に宥栄自力で本堂を建立したが、宥栄は貞享元年5月29日高尾寺でなくなっている(篠山記)