宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-幕末の宿毛の動向】

ペリー来航以後の国内情勢

嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4せきの軍艦をひきいて浦賀に来た。ペリーは日本が開国してアメリカと国交を結ぷように軍艦の威力を示しながら強く要求したのである。この要求に負けて幕府は、翌年アメリカと和親条約を結び、下田、函館の2港を開いたのであった。まもなくハリスが来て、通商条約の締結を迫ったのであるが、大老伊井直弼は勅許をまたずに5か国と通商条約を結び、貿易をはじめることとなった。その上将軍継嗣問題も起り、土佐藩主山内容堂たちは、水戸の徳川慶喜を立てようとしたが、伊井大老は家茂を将軍とし、慶喜派の大名たちを罰したのであった。
これらのことより尊王攘夷論は急激に盛んとなり、これに手をやいた幕府は、安政5年(1858)安政の大獄を断行して尊王攘夷論者を投獄し、幕府に反対する勢力をおさえたのであった。だが、安政7年(1860)桜田門外の変で伊井大老が殺され、文久2年(1862)には坂下門外の変で老中安藤信正が遭難するに及んで、幕府の威信は地におち、薩摩、長州、土佐等の尊王棲夷の勢力は急速に増してきたのである。
こうした情勢の中で、土佐での尊王攘夷の中心的な役割を果したのが武市半平太(瑞山と号す)であった。