宿毛市史【近世編-幕末と宿毛-幕末の宿毛の動向】

岩村通俊、竹内綱の後藤象二郎、武市瑞山訪問

土佐勤王党は、一藩勤王を目ざし、土佐藩上下を一致させて勤王に向かわせようとしたのであった。しかし山内容堂達は、徳川の恩義を忘れることができず、徳川も朝廷もたてる策すなわち、公武合体を目ざしていたので、執政吉田東洋は、土佐勤王党の意の通りにはならなかった。そのため、文久2年(1862)4月8日、東洋は那須信吾たちによって暗殺され、一時勤王党の勢は強まったかに見えたが、やがてその反動として勤王党苦難の日がやって来たのである。
乾退助(板垣退助)、小笠原唯八たちの上士は、容堂の命をうけて勤王党に対抗する上士の反動団体を組織した。そのため挙藩勤王を目ざしていた勤王党の志とは、かなり異る方向となった。
間崎滄浪、平井隈山、広瀬健太の三士は、青蓮院宮を強要して、藩政改革の令旨を受け、それを藩に示したが、宮を強要した事が知れ、三士はついに切腹を命ぜられた。
このような情勢のもと藩内でも尊王か佐幕か、攘夷か開港かでもめにもめていたが、宿毛でもこの問題で激論がたたかわされ、重役の間でも勤王、佐幕の2派に分れ、その論争のため重役すべてが交代しこのためか竹内綱もわずか20才で目付役となったくらいであった。しかし宿毛では攘夷論の方が強かったが、これは武市瑞山等の影響がかなりあったものであろうと思われる。竹内綱は攘夷論には反対であったが、この情勢を心配して高知の攘夷派、佐幕派の2派の有力者についてその論を聞き、その是か非かを研究しようとして伊賀家に申請し、文久3年(1863)5月26日に側用役岩村通俊と共に宿毛を出発したのである。岩村通俊は瑞山とも関係があるので多分攘夷派を代表して行ったものと考えられる。この間の2人の目的、行動等、竹内綱自叙伝に詳しく出ているのでそれによって記してみる。
29日高知について先ず奉行職深尾鼎を訪うた。深尾は攘夷討幕はいかないというが、その理由は実に平凡で取り上げる程のものではなかった。
次で目付役後藤象二郎を訪うた。後藤は堂々と論じた。その要旨は、「第1に朝廷と幕府を調和し、公議輿論を以て政権を統一する。第2に国内の物産工業を開発して外国との貿易を盛んにする。第3に南洋の未開地に国内に余る人民を移住させ開拓させて国勢を発展させる。以上のためには、勤王を唱え、攘夷討幕を主張するが如きは、国家の発達を妨害するものである。」というのであった。竹内綱はその論の雄大なのに感服して、「南洋の未開地とはどこか」と聞くと、「南北ボルネオ、スマトラ、セレベス」と答え、更にその面積、土質、物産、土民の状況を説明し、この地方に殖民するため目下調査中であるとの事であった。綱はこれを聞いて心がおどり、是非ともその殖民事業に従事したいと願い出る程であった。
次で武市半平太を訪うた。武市は勤王党の首領で、久坂玄瑞、三条実美などと攘夷討幕の計画をなし、高知に帰って容堂公に建議をした当時のことであるので、其の勢は極めて盛んであった時である。武市の論は、「外夷は東洋を侵略するものであるから、すべて追い払わなければならない。」というのであった。綱は「従来貿易を許していたオランダをも迫い払うのか。」と聞くと、「無論なり。」との事、綱は更に「そうすると、我が国に産しない薬品、染料、毛皮、洋式銃砲等はどのようにして輸入するか。」と聞くと、武市は答に困ってすこぶる要領を得ない答となってしまった。
更に板垣退助を訪うたが病気のため面会ができなかった。しかし後藤、武市2氏との会談で、いよいよ攘夷論のよくないことを確認し、6月18日に宿毛に帰り、領主にこのことを報告したのであった。(『竹内綱自叙伝』より)
慶応2年(1866)イギリス船が安満地に入港した時、綱が発砲をとめて英船に上り交渉した事も、後藤、武市2氏との会談で、攘夷を非とする心ができあがっていたためであろう。
武市瑞山は文久3年(1863)9月、獄に入れられ、慶応元年(1865)5月に切腹を命ぜられた。
坂本龍馬は脱藩したが、やがて江戸で勝海舟の門に入って航海術を学ぴ、後には海援隊を組織した。龍馬の大政奉還論は後藤象二郎、山内容堂を動かしついに大政奉還の建白書の奉呈となり、慶応3年(1867)10月14日の、大政奉還となったのである。

竹内綱書 岩村通俊書
竹内綱書岩 岩村通俊書