宿毛市史【近世編‐農村の組織と生活‐開発】

大島浦の開発

貝塚の浜田家には、大島開発に関する古文書が2つある。それによると大島の開発は、元和元年(1615)からとなっており、それまでは無人島であったようである。開発途中で古い畠の跡があることの記事もあるが、その当時農耕されていた田畑の記事は全然出てこない。
しかし、長宗我部時代には、相当な面積の開発が既になされ、刀祢(浦庄屋)も置かれているところをみると、その時代に大島に住民が果して居なかったのかどうか、少し疑問も残るのである。

長宗我部時代の大島
天正地検帳によると、当時の大島村は、現在の大島、片島、池島を含む広範囲のもので、田畑の合計は五町七反四十五代もある。大部分は田であるが、そのうち大島では五反田、四反田、柳の窪、ツチトリ、フンサイ、七ツオロシ、ニウトウ、小タ、大タノコ、小道コエ等に二町八反余の水田があり、片島には一町余の水田、池島には一町二反位の水田が記載されている。
屋敷は記載されていないので、家は無かったと見なけれぱならない。そうすると、これらの水田を耕作するのには、本土の方から船で来て耕作をしていたのであろう。それらの土地が地検当時すべて耕作されていたのではなく、久荒というのも相当多くあるので、久しい荒地もかなりあったようである。
ともあれ何町歩かの水田が開けているのに、人が住んでいなかったのは合点がいかない。
長宗我部元親は、慶長2年(1597)に庄屋、刀祢などの掟を定めて、これを実行した。その時の庄屋の中に
1.大深浦、小深浦、椛、藻来津、宇須々木、大島庄屋松崎孫兵、名本弥兵衛
とある。6か村の庄屋であるので、大島に果して人が居たのかどうか、これでも明らかでない。
刀祢の中では、
1.大島刀祢  甚左衛門分  岩崎三郎兵衛
1.坂ノ下    同        同
1.立浦     同        同
となっており、大島、坂ノ下、立浦(宇須々木)の刀祢に宿毛甚左衛門の家来、岩崎三郎兵衛が任命されている。当時坂ノ下は宿毛の外港として開けていたので、坂ノ下が浦として人家があったことはわかるが大島に果して人が居たのかどうかこれでもわからない。浦庄屋の事を刀祢というのであるから大島にもすでに浦(漁村)ができていたともとれるのである。浦が既にできており住民が居たとすれぱ、地検帳に屋敷の記入があってもよさそうである。
この点、一応不明のままおくとして、地検帳の時代以後、田畑も荒れ、住民も居なかったと考えてよいのではなかろうか。この荒地を新しく開発したのが、貝塚の浜田久兵衛で、天和元年よりということになるのである。
浜田久兵衛の大島開発
貝塚の浜田家には、2通りの大島開発の記録がある。内容に少しのくいちがいがあるが、それをもとに大島開発の模様をさぐってみることとする。浜田家の初代浜田久兵衛は長宗我部元親の臣で、はじめ大深浦に住んでいた。後、山内可氏に知行三十石で召抱えられ、貝塚に住むようになったのである。
久兵衛は、かねてから大島の開発を考え、漁村にするのによい土地柄であると思っていた。元和元年(1615)このことを貝塚の者たちに話したところ、惣作、鹿蔵の2人がそれに賛成した。早速宿毛の役所にも届けて、2人を大島に送ることになったが、その日暮しの2人であったため、久兵衛は米の世話、船の世話までしなけれぱならなかった。2人に米五斗ずつをつかわし、古船1艘を調達して2人を送った。2人は毎日船で大島へ通い開発をし、翌々年の元和3年(1617)には畑を一反二畝も開墾している。
この2人の成功で、久兵衛はますます自信をつけ、この土地を浦(漁村)にする方がよいと役所に進言し、元和3年(1617)5月5日の節句の休みに貝塚の人々を全部、自分の家に呼び寄せ、大島開発の計画を話し、賛成者を募集した。その場で6人が直ちに応募したが、他の者は、しぱらく考えたいとの事であった。11日になると新たに8名の者が応募し、合せて14名となった。この中には先年から開発に従事していた惣作と鹿蔵も入っている。(浜田家の一書には元和元年からの開発者は3名、元和3年新たに加わった者は11名、合計14名とある。)
大島開発記
大島開発記
14日よりいよいよ開発をはじめることになり、久兵衛は14名を船に乗せて大島へ渡り、夜明け頃、最初の鍬を打ち入れ、日暮頃までに、二畝余の土地を開墾した。そして、15日には三畝、16日には二畝を開き、この3日間に七畝半の土地ができたのである。17日には、ここに小屋を建てるように地ならしを行ない、18日には、くじ引きで自分の土地を決めた。こうして一先ず、家地はできたものの、小屋を建てる費用がないので、その米まで久兵衛は調達してやらねぱならなかった。
6月3日には小屋もかなりできあがり、八助、藤吉、助蔵、三助、伊太郎、金次、重助、惣作の8名が引越しを行なった。
15日には、惣頭の平蔵をはじめ彦治、覚蔵、惣三郎、鹿蔵(他2名は名前不明)達6名も家内一同と引っ越しを行ない、14名の者全員が移住を完了した。(一書には5月28日11人引越、先に居た3人と合わせて14人となるとある。)
こうして天和3年6月15日が、新しい大島村の誕生日となったのである。
漁業の開始
大島へ移住した人たちも、その後畑の開墾も行ない、次第に落ち付いたのを見た久兵衛は、漁業の開発もしなければと考え、伊予の岩水浦(深浦の近く)の庄屋に依頼して、漁業の熟練者5人、他に3人合せて8名の者を雇い入れて漁業の指導に当らせることにした。元和4年1月1日、8名の者は大島に来て、その年中大島に留り指導することになった。その者たちは岩水浦から船や網も持って来たが、大島の14名は勿論、貝塚の者までその時は手伝った。
岩水の漁師の指導で、次第に漁もありだしたので元和4年3月5日を期して、大島浦と呼ぷことにした。(一書には元和3年8月大島浦ということにし、11月に岩水の者を呼び寄せたとある。)
浜田久兵衛碑
浜田久兵衛碑
元和5年(1619)正月には、貝塚の者が新たに5人移住した。新しく漁場は開け、釣漁もよくできだしたためである。
浜田久兵衛は、この時分、土地鎮護のため宇須須木の大明神を勧請して大明神(後に神社となる)を産土神とした。
久兵衛は大島開発の功によって、寛永5年(1628)2月、大島浦方に任ぜられたが、寛永12年(1635)死亡、大島へ埋葬した。
大島の洞泉寺境内に浜田久兵衛の碑が建っているのは、久兵衛が大島開発の大恩人であるからである。
浜田忠兵衛と大島
久兵衛の死後、2代の浜田忠兵衛があとをついだ。正保4年(1647)には庄屋小野久右衛門を置き、水主30名を任命して船手とし、伊賀氏の水軍を増強し、大島が水軍の根拠地となるようになった。
このように、大島では次第に、人が多くなるにつれて、お寺がほしいという声が出だした。貝塚の住人が主であったため全員が禅宗であった。それで高知の真如寺に相談し、その世話で、慶安2年(1649)6月20日に洞泉寺が開山した。
明暦2年(1656)に貝塚にあった船屋を大島へ移し、分一役所も設けた。船屋というのは明らかでないが、領主の乗る関船を置く所ではなかろうか。
明暦3年(1657)12月16日に、公儀御浦方御役人池上半左衛門が大島に来た。そして、「この浦は公儀のものであるので、今日から我々が支配する。」といいだした。忠兵衛は、「大島は、宿毛領である。今まで大きな犠牲をはらって浦にして来たのを、公儀が取り上げるとは何事だ。」と反論し、遂に論争がじて、忠兵衛は、半左衛門を切り殺してしまった。忠兵衛は、早速このことを宿毛へ報告させ、翌17日自分は宿毛の東福寺の山門で切腹したのである。宿毛では殺害の報をうけて役人を呼ぴ集めて協議した所、忠兵衛の言分が正しいので、切腹にはおよばないということになり、切腹を止めようと役人がかけつけたが、その時には、既に忠兵衛は切腹した後であった。
その後の大島浦
その後、漁村として大島は発展をとげたのであるが、宝永4年(1707)の大地震の津波で、全戸が流失するという被害をうけた。地震の所で述べたとおり、その時の津波は神杜の石段が39段までつかったのである。
しかしやがて復旧したとみえて、享保3年 (1718)の郷村帳によると、大島浦地高五十石七斗九升三合、人高73軒、337人、船20艘と記されている。
このようにして、大島浦は、次第に発展し海防の役を果すとともに、土佐藩屈指の漁場となったのであるが、大島浦に所属する片島、池島などは、無人島のまま、明治に至るまで放置されたのである。