宿毛市史【近世編‐町人と職人-宿毛の地高と人口】

宿毛の地高と人口

『南路志』には「坂下村は宿毛に属す、瀬尾氏筆記に曰く、土居の後ろ川の関を中ウトの関(河戸の関)と云う、昔はこの川土居の下を廻流してこの関よリ錦口と云う所へ流れいで、それより海に入ると云へり、故に今の坂下村は宿毛についてあリ、今は坂下は川を隔て向いに有るなり、故に宿毛の山際を古川と云う。」と記されている。
『南路志』に云う古川は現在もその名を残しているが、古川の名のあるのは東福寺の前から下流であって、それから上流は古川とは云わない。天正地検帳の西ケ谷(今後谷という)新ケ谷の水は東福寺の上手、小学校の裏あたリに溜池のようになっていて、それから下流が古川を形成していたのではあるまいか。若し松田川の本流であったとするなら、東福寺の前が上古川であってそれより上流が消失するとは考えられないのである。
天正時代に宿毛を流れていた清水川はいま真丁の裏にその名が残っている。「宿毛絵図」に清水川池とあるのがそれであろう。沖須賀、仲須賀の地名は地検帳にはないのでそれより以後の命名であろう。しかし当時沖須賀、仲須賀が海でその後の形成とは考えられないのである。
「土居の後の山を武平山と云、土居門は南向、門前に堀あり、東に松田川堤あり、堀の南士屋敷(南北二筋)その南に町家三筋あり、東町、新町(真丁?)中に水道あり、南に牛瀬川あリ或は松田川と云う」(『南路志』)とあるが、それは後世のことであって、天正18年(1590)3月13日の幡多郡宿毛村地検帳によって、いま松田川より西、貝塚村までの村の名をあげてみると、新善寺村、松田村、延明寺村、有瀬村、宿毛村、畠中村、安田村、中市村、塩須賀村、坂下村、川島村、浜須賀村、松原村、唐人名村、萩原村、与市名村、新光寺村、ヲロノ本村、宮ノはな村、貝塚村である。
これらの村々に住居していたと思われるのは地検帳に「ゐ」と書かれている人々である。帳付百姓と考へられるのは「又右衛門、佐左衛門、鎖□□□、善介」の4人であり、武士として給地を持って居住しているのは「右衛門大夫、松田伝大夫、黒萩甚次郎、浜田弥三兵衛、矢野市亟、田村二良兵衛、東惣佐衛門、重松三太夫、島村猪介、山本太郎兵衛、上原善左衛門」の11人である。天正地検帳によると宿毛の地高は百三十二町四反二十二代一歩であって、作目は百三町二十三代一歩である。荒地が二十九町三反四十九代である。
弘化5年(1848)の「有田家文書」によると、宿毛の地高は千三百三十一石五斗九升であって、天正時代の総地高にほぼ等しい。けれども荒地が三十町ほどあるから、この数字でみる限りでは実際はこれよリ少ないはずである。しかしその間における新田開発があったことを考えるとその数字の開きは問題とするにあたらないかも知れない。
「有田家文書」では「諸割付地本田左の通り」として「地千四十八石五斗六升三合」とあり、この地高へ諸掛リを割当てて取立てたものと考えられる。
また「公儀御普請夫ならびに坐頭米左の地へ割ること」とした書付には「宿毛村地高千百七十石四斗四升の内、地七百七十三石八斗四合本田、同九十五石三斗二升一合新田」とあって、村々の地高の内として右のように減額したものから徴収したものと考えられるのである。
地検帳にある「居」の14、5人でこれらの面積を耕作したと仮定すると平均十町歩に近い土地を耕作したことになるがこんなはずはない。試に「ヤシキ」となっているものは68力所で、本屋敷十一町二反一代、出屋敷二町一反四十九代四分、合計十三町四反四分である。この68の屋敷にそれぞれ人が住んでいたと仮定すると一家5人平均として340人前後ではなかったかと推定されるのである。