宿毛市史【近代、現代編‐明治維新と宿毛‐宿毛機勢隊】

伊賀陽太郎北越戦況視察


宿毛機勢隊北越出陣の方向
宿毛機勢隊北越出陣の方向

宿毛兵の出陣がまだ許されなかった頃、京都で御親兵総取締という重職についていた岩村通俊が北越征討総督仁和寺宮嘉彰親王に従って北上し、柏崎に行くことになリ、当時京都に遊学していた伊賀陽太郎らが投宿していた仮屋敷に伺候して出陣を勧めた。
この時の事情を通俊はその著『貫堂存稿』で次のように述べている。
伊賀陽太郎(当時18才)は明治元年5月父氏理の命によって京都に遊学し、竹内綱がこれを助け、近習として林有造、石原省馬、医師羽田文友、下僕として横山和吉が付いていた。ちょうどその時分、岩村通俊は親兵を督して京都にいたが、1日陽太郎に会っていうのに
「只今は兵馬倥偬の間にあり、京で学問修業する時期ではないと思う。鳥羽・伏見で起った戦いは既に、北越方面でも戦いがおころうとしています。何より現地での戦況を実際に御見学になられ、王事に尽すべきではないでしょうか」と勧めた。陽太郎も我が意を得たりとして喜び、直ちに出陣しようとしたが補佐役である従兄弟の竹内綱は、陽太郎の父氏理の命令を固守して承知しなかった。それでひそかに土佐藩の毛利恭助に頼んで、陽太郎の伯父にあたる容堂を説き、北越の戦況視察という名目で許可を得た、伊賀陽太郎の一行は7月16日戦塵たけなわの北越に赴いたのである。通俊は主家の嫡男が維新の動乱をその眼でみられるご修業の好機であるとこれを喜び、その気持を詩に詠んで血書し、三条の大橋まで見送っている。

伊賀陽太郎  北越出発
伊賀陽太郎  北越出発

有造は、荷物や調度の発送の関係で一足おくれて出発した。そして通俊も10日後の7月25日京都を出立し、越前の福井で有造と会い、兄弟揃って駅近くの旅館に陽太郎らを訪ねた。その夜有造は床の中で通俊と竹内綱の会話を聞いた。それは出陣を命ぜられた宿毛兵が京都に到着すると、軍費の関係か、老若混合軍を嫌ったためか、容堂公は全軍の参戦を許さず、半数を国に帰すようにしている模様であると通俊が話していた。
そこで驚いた有造は中村進一郎達が精兵を選ばず老若を混同したのは不覚であるが、老年にしろ抽せんにしろ帰還する者の面目は丸潰れだ。第一半数が帰還すれば士気に影響する、なんとしても万全の策を考えなくてはと、翌朝通俊、竹内も列席のうえ陽太郎に、宿毛兵の老若混同は、勿論指揮者の手落ちだが、老といっても50を越えず、若といっても15にはなっている。いずれも郎君の馬前に討死すべく決死の覚悟を以て上洛した人々であり、不幸帰国ということになると、不平は起リ士気は衰え、重大なことにもなりかねないので、自分が郎君の代理として京都に行き、懇篤に説明すれば不平も解け、帰国する者の面目もたって問題解決もできると思うので、是非自分を京都へ行かせてほしい」と提案し、陽太郎の賛成を得て急遽京都に向った。しかし内心は半数帰還の不平を利用しょうとしたのである。帰還命令に服従して何もいわずに引き揚げるような気力の弱い者は参戦しても役にたたない。そこで中村や近藤などを宇都宮方面へ遣わし指導者を除いたうえで帰還を伝達すれば全軍が動揺するであろう。中村や近藤を追う者、帰還に不平を唱え自殺する者もあるかも知れないが、脱走や不平や自殺の続出は反面士気の旺盛を物語るもので、その時まとめて参戦すれば、必ず戦いに勝つという考えであった。

伊賀家下士の陣笠
伊賀家下士の陣笠

越前の梅津で豪雨に遭い、湖水は渡船での通行ができず1泊し、翌朝船を渡してくれるという漁師が見つかり乗船した所へ、2人の武士が追って来て、是非同船を頼むというので同船を許し出発した。2人の武士は薩藩の者で、2人の口から長岡で官軍が大敗したことを聞いた。2人はこの敗報を京都に伝える使命を帯びていたのだった。
有造は心の中で喜び、長岡の大敗は宿毛兵にとっては天祐であると考えた。半数を帰還さすどころか、全軍を参戦させなければと、本藩も考え直すだろう。
薩士と京都まで同行し、五条通りの定宿に着いた所、上村修蔵、中村進一郎の両人が半数帰還の命令に困惑していた。そこで長岡での大敗の事を話し、明朝藩邸に行き全員参戦できるよう努力する旨伝えたので二人は非常に喜んだ。
翌朝有造は藩邸に行き毛利恭助に会い、長岡大敗の伝聞を語り、この敗報が事実であれば宿毛兵の帰還は不利であるので、全軍を参戦させ、他藩の軍に協力して大敗の恥辱をそそがなければならないと説き、毛利の賛同を得、確報により半数帰還は取消す旨の命令がでた。
有造は目的を果たしたので、直ちに引き返すべくわらじを履いたが、官軍が大敗した直後だから官軍に伝える用向きがあるかもしれない、どうせ越後路へ行くのだから、ついでに取り継いでやろうと兵事省に立ち寄った。
兵事省の西村良吉は軍需輸送の判事であり、有造と旧知の間柄であったので、人夫32人と2棹の弾薬輸送を委託した。8月6日午後5時有造は人夫を督励しつつ敦賀に向って出発したが、途中連日の大雨で道路が悪く、そのうえ湖水の氾濫で湖上輸送ができず、障害と闘いながら敦賀にたどり着いた。ここでも海上の風波が高く出航できず4日滞在、5日目に薩摩の御用船が入港したので便乗させてもらい、新潟で弾薬を樋口干城に渡すことができた。新潟の街に入ると寺院や旅館の軒下に各藩の表示があり、その中で郎君一行の姓名を見付けることができた。
有造の帰陣を喜んで祝盃を挙げ、談笑している所へ本藩進発の知らせがあり、船で新発田に渡り続いて奥羽を征討するというのだった。
船が新発田に着き上陸したが、そこへ通俊がやって来た。弟の高俊も軍監として既に柏崎に滞陣していた。
                                                                        (『林有造伝』による)