宿毛市史【近代、現代編-交通土木-陸上交通発達の経過】

国道321号線

宿毛から小筑紫方面に至る交通は、昔は松田川が大きな障害となり、沖須賀から中市へは渡し舟であった。その上松田川口は山が海に迫って通れないので、坂ノ下から三倉坂を越え、田ノ浦へ出る山道が使用されていた。しかしこの道は大変な山坂で、車馬の通行はできなかった。
明治27年幡多郡会において中村町を中心として、渭南、奥内、江川崎、東上山(現大正町)三原の各町村役場に通ずる、車馬の通行に差支えない程度の道路の改修を行うよう提案されたことによって、道路改修の運びとなったが、測量その他に長年月を要するので測量の出来たところから着手することとし、中村町から蕨岡村坂折に至る線を明治30年度に工事を始めた。そして順次工事をして行く予定であったが準備その他でのぴのびとなり、明治34年5月25日臨時郡会を召集して、渭南線、奥内線、橋上線、三原線、中市線、川登線のそれぞれ一部の着工を議決し、補助申請を行なっている。そのうち奥内線は田ノ浦より福良に至る一里十八町三十一歩である。
35年これらの補助申請のうち橋上線中市線は削除されたが、その他は受理され、初年度割が行なわれている。
中市線とは和田のはぜの木から荒瀬を通り坂ノ下に至る線で、この道によって奥内と結ぶ計画であったのを、宿毛町が33年3月にこの計画変更を議決して同年町独自で中市橋をかけ猛烈に反対したので、宿毛を通って奥内に至る線に変更になったものである。中市線などの工事は37年から始められようとしたが、その年日露戦争がおこり、経費を節約して軍事費ねん出の必要上、工事が繰り延べとなり、40年度に至り継続して施行された。
最初継続年限を10か年としたが、これを6か年に短縮し、41年度から大正元年に至る間に工事が急ピッチで進められ、宿毛から中市まで橋をかけ坂ノ下から松田川口に出て、海岸沿いに田ノ浦、小筑紫方面へ至る郡道ができた。しかしその間において、最初三倉坂を通す計画で2回にわたり設計変更して工事を進めていたものの成功せず、3回目に松田川口、下り松へ出る工事に変更になり44年に完通した。43年12月には三倉坂郡道改修の運動費として奥内、小筑紫両村とも50円支出することを申し合わせている。
その後宿毛、中市間の橋は大正9年の洪水で流され、仮橋が架設されていたが昭和6年6月15日宿毛から中市に至る宿毛橋が架設され、車馬の交通に大へん便利となった。
この橋は橋の長さ220メートルの鉄筋コンクリートの永久橋であるが、計画では2車線であった所、町の分担金1,500円ができなかったため、1車線の狭い橋となった。この橋は橋上で行き違いするため、橋の中央に一部広い所を設け、待避所としている変則的な橋である。
昭和30年足摺が国定公園となったが、その頃より目に見えて自動車の数が増え交通量が多くなったので、宿毛橋付近では混雑がひどくなった。そこで41年3月新田に松田川大橋が架設され、引き続き改良工事が始まったが難工事のため多額の工費を要するので、遅遅として改良は進まなかった。しかし自動車の数は増え続け交通量はますます多くなり、45、6年頃になると夕方のラッシュ時には鹿崎付近の力ーブでは、道が1車線である上に見通しがきかないため、大型車が来ると行き違いが出来ず、後から後から来る自動車のため対面したまま動きが取れなくて、車の列が2、3キロメートルも連なリ1時間近くも待たされる事があった。そのため運転手などが交通整理をするというような状態で、その混雑ぷりは大変なものであった。しかし45年4月にこの線が国道昇格になったので本格的に海岸の山の切り取り、掘り抜き、海の埋立などが始まり力ーブをなくすると同時に道幅を広げていった。51年8月には宿毛、弘見間は完全に2車線となり、アスファルト舗装も完了して交通混雑がなくなり交通が大変便利となった。

宿毛橋 松田川大橋
宿 毛 橋 松田川大橋