宿毛市史【近代、現代編-農業-農民の生活】

大正以後の農民生活

明治の終りから大正にかけて資本主義経済がだんだん農村にも浸透し、農家での衣料生産もだんだん下火となり、かやぶき屋根も瓦と交代し、かしきにかわって過燐酸石炭などの金肥が入り、回転除草機や、足踏脱穀機も普及していった。それに伴って支出も多くなり、自給自足態勢はくずれ、貨幣経済へと急激に変化していった。貨幣経済の過渡的な対応策としてこの頃盛んに行われたのが頼母子講であった。親せき、縁者、知人などが集まり、家の欲しい人があれば家頼母子、納屋を建てたい人があれば納屋頼母子というように、いろいろな名前をつけて頼母子をし、お互いに助けあって困難を切り抜け生活の向上をめざしたのであった。このように貨幣経済に対応するため相互扶助の精神を発揮したのであったけれど、根本的には金を得なくては解決出来ないので、米や麦以外の換金作物が考えられなくてはならなかった。

杞柳栽培
換金作物として山奈村山田(現山奈町山田)付近で取り入れられていたのが杞柳栽培であった。
杞柳は中平重虎が明治12年中村市国見に試植したのが姶まりでだんだんこの地方に普及したものである。山田付近は洪水の常襲地帯で低地では稲を植えてもほとんど収穫することができなかった。そこで考えられたのが杞柳栽培であり、中筋川沿線の低湿地に多く植えられ、杞柳成金と言われる人達もいたほどであった。
杞柳は長さ20センチメートル位に幹を切り、低湿地にさして置くと根を出し芽が出てだんだん繁茂していくのであるが、これを秋に切りとり田に突きさして置き、春先に皮をはいで水洗いし幹を乾燥させて、主として片島より大阪方面に出荷したのである。その頃はシート等のなかった時代であったが、乾燥した製品を雨にぬらすと品質が低下するので、荷馬車で運送にあたった人達は大変苦労したようである。
杞柳は柳こうりや、飯ごうりにしたのであったが、柳こうりはまもなくトランクに変り、飯ごうりもアルミの弁当箱に変ってだんだん栽培が下火になっていった。
      小筑紫村養蚕の推移  (小筑紫村事務報告書による)
年 次 掃立数量
(昭7まで 枚)
(昭8以降グラム)
収 けん 高
(貫)
金 額
(円)
貫 価
(円)
夏秋 夏秋 夏秋 夏秋
大正 11年   1,058    
 〃 12年   1,639    
 〃 13年   1,698    
 〃 14年   1,865 16,829  
昭和  1年 622 3,280 23,519  
 〃  2年 777 3,911 21,664  
 〃  3年   3,357 2,338 5,695    
 〃  4年 454 655 1,109 3,229 4,110 7,339 23,477 27,648 51,125 7・28 6・72 7・00
 〃  5年 516 530 1,046 3,519 3,580 7,099 13,127 6,696 19,823 3・73 1・87 3・08
 〃  6年 580 710 1,290 5,786 4,308 10,094 11,978 12,790 24,768 2・07 2・97 2・52
 〃  7年 429 558 987 3,483 4,484 7,967 8,172 20,020 28,192 2・35 4・46 3・41
 〃  8年 5,323 6,678 12,001 3,548 4,340 7,888 21,936 16,161 38,097 6・18 3・72 4・95
 〃  9年 3,372 4,650 8,382 2,582 3,498 6,080 6,224 9,096 15,320 2・41 2・60 2・51
 〃 10年 3,350 3,890 7,240 2,117 1,802 3,979 8,208 10,750 18,958 3・77 5・97 4・87
 〃 11年 3,380 4,580 7,960 2,550 2,840 5,390 11,865 12,828 24,693 4・65 4・52 4・59
 〃 12年 3,074 3,850 6,924 2,665 2,368 5,003 13,972 8,635 22,607 5・24 3・65 4・45
 〃 13年 2,871 3,148 6,019 2,565 2,426 4,991 10,004 14,076 24,080 3・90 5・80 4・85
 〃 14年 2,793 3,819 6,612 2,824 3,024 5,848 26,045 37,580 63,625 9・22 12・43 10・83
 〃 15年 3,015 3,381 6,396 2,676 2,258 4,934 32,256 18,390 50,646 12・05 8・14 10・10

養蚕業
養蚕は『三原村史』によると明治15、6年頃に始まったとなっているが、宿毛市でもこれと前後して始められたようである。養蚕は第1次世界大戦後アメリカよりの受注で高値を呼ぴその後急激に増えていった。そこで宿毛にも大正11年宮尾製糸工場が土居下で操業を始め、昭和2年には錦で岡野製糸工場が操業している。養蚕は大正から昭和にかけて増え続けていったが、昭和5、6年頃暴落しその後価格が低迷したので生産額も徐々に減少して行った。昭和14年から高騰したが太平洋戦争の影響で食糧増産の見地より桑園は整理されていったので、生産は旧に復することはなかった。当時の養蚕の推移を小筑紫村事務報告書で見ると小筑紫においては前頁の表の通りである。

養蚕室
養 蚕 室