宿毛市史【近代、現代編-電気事業-電気事業の普及と変遷】

電気事業の普及と変遷

大正10年南海電気株式会社は事務所を真丁より、法京ヶ市へ移転した。
渇水時には電力の不足をきたしたので、大正10年新田に出力50キロワットの火力発電所を建設し、大正11年8月には小筑紫、弘見方面と錦、小深浦、大深浦を経て愛媛県一本松村方面へ供給を開始し、大正14年には三原に変電塔を建設し、三原村へも供給を始めた。
昭和5年、本社を宿毛へ移し、出張所を清水においた。
昭和6年、楠島、中村間に連絡線を建設し、伊予鉄道電気株式会社より受電を開始し、渇水時補給用電力50キロワット受電の契約をした。そして同年、古満目、一切、柏島方面へ送電、同8年、姫ノ井、西泊方面、9年、正木、山北、一本松の一部、橘浦へと順次送電していった。
当時高知県は県営電気事業を行ない着々と成果を挙げていたが、なお県下に県電の外に、大小13の電気事業者があって、土佐電気以外は料金が高かったので、当時の高知県知事泊武治は、これらを速かに合同統一して合理的な経営を行ない、安くて良質な電気を県民に供給し不均衡をなくしようとして、安喜水力電気株式会社、北土水力電気株式会社、四国水電株式会社、檮原村営電気、佐賀水力電気株式会社、7郷村外2ヶ村水電組合、伊予鉄道電気株式会社中村出張所、南海水力電気株式会社の8社の買収を行なった。そこで昭和11年7月1日南海電気は高知県営電気となり、宿毛の南海電気本社は高知県電気局宿毛出張所となった。
昭和12年6月、宿毛変電所を増強し、450KVAとなった。
仝年8月、8800円で沖の島電気株式会社を買収し、9月1日県営に移管した。
昭和12年12月春遠、石原、高石方面へ送電した。13年宿毛出張所と変電所を本町に移転した。
昭和17年7月、配電統制令により四国配電株式会社に合併し、所名も四国配電宿毛営業所となった。同年一本松方面は城辺営業所の供給区域となり、配電線は撤去された。続いて19年には新田火力発電所が廃止となった。
戦後は各家庭に電気器具利用が多くなり、電力の供給増大を要求されるようになったので、施設の改善をつぎつぎと行なっていった。その主なものとして、22年4月より、南幹線を小筑紫まで2回線とし、8月にはニッ石、一切間を三相線に切替え、11月には片島、宇須々木線を片島街道ヘルート変更し単独線とした。また12月には、橋上村野地長尾間の送電線を撤去すると同時に三原変電塔、長尾変電所廃止となった。そしてこれにかわるものとして、和田経由長尾線が新たにつくられた。
昭和25年5月、四国配電は、電気事業再編成令により四国電力株式会社となり、宿毛はその出張所となった。
その後も施設の改善がつぎつぎと行なわれ、26年4月から9月にかけて南幹線楠山線は6KVとし、ニッ石にブスターを設置した。30年には小筑紫より弘見まで2回線を延長した。また31年には出張所の改築か行なわれ宿毛変電所も、3000KVAと増強された。34年には、主要地区に設置されていた散宿所のうち三原店が改築となり、有岡、小筑紫は各2名いた所員か1名づつとなった。37年には安満地散宿所か廃止となり、38年には、有岡、小筑紫、橋上が廃止となり、有岡は中村出張所の区域となった。40年12月宿毛変電所を増強して、6000KVAとし、41年には小才角方面が宿毛管内に編入された。
離島振興法が制定されると、沖の島は島民の強い要望もあって、海底ケーブルによる送電の計画ができ、四国電力より送電することとなり、43年10月柏島中継所を設置して、宿毛より沖の島配電線を新設、この延長として海底ケーブルが施設され、10月21日より送電された。
46年7月、変電所を法京ヶ市より宿毛市字中脇に移し、移転後の出力は15000KVAとなり営業所より遠隔制御の自動化となった。
48年4月1日楠山発電所が廃止となった。同年6月20日鵜来島へ海底ケーブルを布設し、7月4日より送電を始めた。
戦後宿毛市で電燈のひかれた所は、30年高津、31年京法、32年野地、34年奥藤、還住藪、笹平、35年貝塚、久礼ノ川、36年都賀川、37年一生原そして48年に鵜来島へ電気がともり、無電灯部落は解消された。

宿毛変電所
宿毛変電所

沖の島の電気
沖の島火力発電所
沖の島火力発電所
沖の島で最初に電気事業を起したのは、中村市楠島の桑原良樹であった。
彼は昭和3年母島の谷川の水を利用して発電することを計画し、20KVAの三相交流発電機を設置したが、水量に恵まれないので、その電力も200戸を限度としたという。
営業計画としては、母島弘瀬部落を対象としたが両部落の対立感情が災いして、弘瀬部落には計画通り配電することができなかった。そこで母島部落へ大部分配電することとなったが、出費のかさむのを心配することや、昔の習慣にとらわれて石油ランプの生活を改善しようとしない人もあって、配電に無理があった上に、当時漁村が不況であったので、電燈料の徴収が思うようにいかず、時が経つにつれて、経営が苦しくなり、廃業も考えねばならない状態となった。
その事を一番心配したのが、受電していた大部分の人達であった。そこで昭和6年11月村会に同社買収が提案され、満場一致で村営に移管した。
ところが業績は依然として振わず、年々負債は増すばかりであったので、再三県に売却を陳情した。その要請に応えて県が調査したところ、有利な採算はたたないけれど、県下の電気事業を県営に統一の趣旨と、沖の島村救済の見地にたって買収することになり、昭和12年8月、8800円で買収契約が締結され、同年9月1日をもって県営に移管した。
移管後は電気料も安くなったばかりでなく、昭和15年に調整池を新設したので、昼間や深夜の電力消費のない時は貯水し、夜間の電灯用にあてたので、村民の要求に応えることができ、300戸、350灯の需要を充たすようになった。
終戦後、電化製品が普及し、特に30年頃よリ急激に増加したので、四国電力管内では各所で施設の改善か行なわれた。当時沖の島では、ラジオも電力不足で許可にならず、映画をする時も、全戸の電燈を消してやっと上映されるという状態であり、その他の器具はもちろん使用することができなかった。
このように、文化の進展より取り残される面が多く、電力の改善は村民の悲願であった。しかし、会社は現在の設備を改善するにしても、水量に限度があるのでままならず、また、火力発電をするにしても、戸数に限度があり、採算が成り立たないということから村民の要望に応えようとしなかった、。
そこで村民は電力問題を大きく取り上げ、31年4月四国電力より離れて沖の島電力利用組合を組織し、火力発電を行なうこととした。発電機は三菱三相交流同期発電機、40KVAであった。
費用は、敷地、建物、機械、発電機、配線合計、1231万円であったが、各家庭の引込線などは、四国電力当時の配線をそのまま提供された。
これにより、長浜地区などにも、電灯がともり、随分不便を解消することが出来たが、大部分まだ夜間のみの電力供給であった。このようにして、電気事情は大分よくなったが、夜間のみの送電であリ、料金も大変高かったので、島民はなんとかしてこの不利な条件が克服されることを望んで離島振興法の適用による電気事情の改善を強市や県に働きかけ、その結果、農山漁村電気導入促進法が適用になり海底ケーブルによる四国電力よりの送電が、43年10月21日より行なわれ、ここに初めて、沖の島が本土なみに文化の恩恵に浴することが出来るようになった。

鵜来島の電気
鵜来島は昭和23年頃部落の有力者の家に、初めて8ボルトの直流二次電池(バッテリー)が導入され、電気が灯り、その後部落内にだんだん普及していった。
バッテリーによる点灯は、充電する必要があったが充電には片島まで行かねばならぬ不便があった。
この不便さがしばらく続いたが、33年に学校より、校内放送設備設置などに伴って、自家発電機設置の要望が出され、これが契機となって、部落内に発電機設置の気運が盛り上り、同年電気利用漁業組合ができた。
組合は株式で一株5000円、組合員数は120人から130人で、市や県の補助をうけ総工費242万円(国80万円県80万円地元負担82万円)で、35馬力の発電機を購入し、係員2人をおいて組合員の各戸に送電した。
地元はこの負担金を借金していたが、返済のため、頼母子講を作り、年2回払い込みで5年間に償還した。
送電時間は夜は日没から11時までで、深夜は停電し、農繁時には夜の送電を早く打ち切り、朝4時頃より6時頃まで送電した。また夜も必要な時は延燈したが、一時間につき200円を徴収した。氏神様の祭りなどの時は、1日中送電した。電気料は初めは一戸につき13KWまで160円、1KW増す毎に15円であったが、後には15KWまで950円、1KW増す毎に15円となった。
その後だんだん電気器具が各戸に購入され電力需要が多くなったので、42年3月に65馬力の発電機に取替えた。
その後沖の島より四国電力の海底ケーブルが延長されて、48年6月20日敷設完了、7月4日より送電開始となり、ここにはじめて本土なみの恩恵に浴するようになった。その総工費は、5,697万4,579円で、国・県の補助費3,774万4,000円、市の補助費1,923万0,579円であった。