宿毛市史【宿毛市の概況】

宿毛市の概況

宿毛市役所
宿毛市役所
宿毛市は、高知県の最西端にある人口2万5000余の小さな都市である。
県外よりの観光客の中には宿毛を、ヤドケとかシュクモ等といつている者もおリ、むずかしい地名であるが、正しくはスクモである。昔は宿茂と書いていた時代もあるが、今はすべて宿毛となっている。
宿毛市の中心地は、松田川下流の沖積平野にある宿毛であるが、大昔この地は葦の生いしげる大湿原で、満潮の時には海水もおしよせる所であつたと想像されている。葦の枯れたのを昔の人はスクモといい、それを燃やした火をスクモ火といつて、多くの和歌にも詠まれているが、この葦原がもとになつて宿毛の地名ができたのであろうと考えられている。
宿毛市は、昭和29年3月31日に、宿毛町・小筑紫町・山奈村・平田村・橋上村・沖の島村の6か町村が合併してできた新しい市であるが、歴史的には極めて由緒の深い土地である。
宿毛の町はずれには、国の史蹟に指定されている宿毛貝塚があって、すでに3、4000年の昔、この地に文化が開けていたことがわかり、平田には県下最古最大の前方後円墳もあって、歴史の古さと深さを物語っている。
古代の史蹟では菅原道真ゆかりの小筑紫、行基の開山弘法大師再興の延光寺があり、戦国時代では、土佐一条氏初代房家の墓、四代兼定の愛妾お雪の生地及び入水地もあって、一条氏とも深いかかわりのある地でもある。
藩政時代になると、山内一豊の甥である山内可氏よしうぢが、宿毛6000石を拝領して入城し、ここに近世的な城下町が形成せられ、以後200数10年間、明治に至るまでその治世は続くのであるが、その間、野中兼山の遺子8名が宿毛に流され、40年に及ぷ幽閉の間、5名が次々と獄死する等の哀史も残されており、旅人の涙をさそう地でもある。
明治維新に際しては、林有造・岩村通俊・岩村高俊・大江卓・竹内綱・小野義真・小野梓等々、多くの人材が輩出したことはあまりにも有名であるが、これは宿毛の歴史的風土と、10代領主氏固うじかたによって開かれた宿毛文教のたまものであろう。
宿毛の西にある片島港(宿毛港)は、明治20年林有造によって開かれたもので、この付近に産する木炭・木材等の積み出し港として船の出入が盛んであったが、現在では、九州佐伯との間にフェリーボートが通い、四国観光の西の玄関としてにぎわっている。
リヤス式海岸で風光明媚な宿毛湾は、かつては海賊伊予掾藤原純友の活躍舞台であり、近くは日本帝国海軍連合艦隊の基地として、幾100の艦艇が停泊した良港であるが、今日では沖の島の断崖やその付近の海底の造礁さんご等の景観は、足摺宇和海国立公園の一部として多くの観光客に喜ばれ、特に沖の島の磯釣りは、日本最良の釣り場として年中にぎわいをみせている。
かっては魚族の宝庫といわれた宿毛湾であったが、今ではハマチの養殖地として名高く、また最近では、宿毛湾の原油基地化、その他の臨海工業化の話もあり、自然保護か開発かで大きな論議を起し、注目されている土地でもある。
このように、古い歴史と豊かな大自然をかかえ、将来の大発展に向って一歩一歩前進しているのがこの宿毛市である。




宿毛市位置図 宿毛市全図
宿毛市位置図 宿毛市全図