宿毛市史【考古編-概説】

概説

古代の人の遺跡や遺物などから、その人々の生活や歴史を調べる学問を考古学というのであるが、宿毛でこれら考古学的遺跡が、世間の目にとまったのは、かなり古い昔のことで、一番最初に気付いたのが宿毛貝塚である。
長宗我部元親の時代にできた、天正地検帳にすでに宿毛貝塚村という地名が出ており、1680年頃の宿毛絵図の中にも貝塚家かいづか村として出ている。
この地は、現在でも貝塚という地名であるが、これらの古記録により、貝塚として世人が気を付け、名を付けたのは、天正よりもずっと古い時代ということがわかるのである。
当時の人々は、ただ貝殻がるいるいと重った所、貝の墓という、意味で貝塚といったのであるが、その貝殻に混って出てくる土器や石器、骨器などから、古代人の生活を知ろうとまでは考えていなかったと思ってよいであろう。
しかし、あの多量の貝殻は特別の注意を引き、貝塚という地名がつけられ、それが戦国時代・江戸時代・更に明治初期まで貝塚村という村名となり、その後も地名として現在に至っている。
この宿毛貝塚と同様に、おとなりの愛媛県南宇和郡御荘町にも貝塚という地名があるが、現在はこの貝塚という所には貝殻の堆積した貝塚はなく、すぐ近くの平城の市街地に貝塚が残っている。土佐清水市清水にも、天正地検帳に「貝塚新ヒラキ塩入」の地名もあって、当時は貝塚があったことが想像されるが、現在、貝塚は残っていない。
宿毛貝塚、平城貝塚を学問的に、最初に取り上げたのは寺石正路氏である。寺石氏は、明治24年に宿毛貝塚と、平城貝塚を発掘し、これを、同年東京人類学雑誌に発表したのであるが、それから宿毛貝塚は世間の注目をあぴるようになったのである。
その後、多くの学者が宿毛貝塚をおとずれて、調査をしたが、ただ出土品を中央に持ち帰っただけで、地元にはその調査結果等はほとんど知らされていない。
戦後の昭和24年夏、高知県教委の手で、宿毛貝塚の発掘調査が行なわれ、私達をはじめ多数の教員がこれに参加して安岡源一・岡本健児両氏の指導を受けたのであるが、これが幡多地区での考古学研究の大きな礎石となったのである。
その後、平田曾我山古墳が発見され、橋田も早速かけつけて、当時の状況を図面に描き、遺物を採集したのであったが後にこの時の調査がもとになり、土佐における最古最大の前方後円墳として認められたのであった。
このように宿毛には宿毛貝塚、平田曾我山古墳と、2つのAクラスの考古遺跡はあったが他には遺跡らしいものはあまり見付かっていなかった。その後、木村剛朗氏や安光啓雄氏等が松田川沿岸を調査して、多くの遺跡を発見し、山本清義氏が橋上遺跡を、今城美福氏が弥生前期の福良遺跡を、更に芳奈では段松靖・下村勲・篠田猛氏などが弥生後期の芳奈遺跡・芳奈向山遣跡を発見するなど、宿毛の歴史の古さと厚さを立証する遺跡が次々と発見され、多くの資料が採集されたのである。
以下、これらの遺跡や資料をもとに、先土器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代に分けてのべることとする。

天正地検帳 宿毛貝塚村 宿毛貝塚 宿毛貝塚 畑の正面
天正地検帳
宿毛貝塚村
宿毛貝塚 宿毛貝塚 畑の正面