宿毛市史【考古編-繩文時代】

繩文時代

約1万年前から2300年前までの時代を繩文時代といってる。それは、この時代に使用された土器の表面に、繩をころがした文様、すなわち繩文がつけられているからである。繩文のつけられた土器を繩文土器といい、この土器の使用された時代を、繩文時代というのである。
この時代には、まだ青銅や鉄などの金属は使用されず、前の先土器時代に引きつづいて石器が主として使用されている。しかしその石器も、先土器時代のように、打製石器だけでなく、磨いて作った磨製石器も多く使われ石器の種類も多くなっている。前の先土器時代には、なげ槍で狩猟をしていたが、この時代になると、弓矢が使用され、矢の先端には石のやじり、すなわち石鏃がつけられ、遠くからいのししやしかなどをとることができるようになった。
この時代には、農耕はまだ行なわれなかったようで、山野に行っては、木の実を拾い、草の根を掘り、その他魚をとったり、貝を拾ったりのいわゆる狩猟採集経済の時代であったのである。
これらの貝やけもの等のたべかすや不用の品物を捨てた所が貝塚であり、今この貝塚を発掘してみると、貝殼に混って獣骨をはじめ、当時使用していた土器の破片や石器が出土するのである。
このような貝塚は、幡多地区には宿毛と中村にあって、当時の生活を物語ってくれる貴重な遺跡となっている。
その他、貝塚ではないが、繩文土器・石器等の出土する繩文時代の遺跡は、宿毛市・中村市・土佐清水市をはじめ、西土佐村・十和付にも及び、海岸や、四万十川・後川・中筋川・松田川沿岸に多く分布している。
繩文時代には、航海術も進歩していたとみえ、九州と交易のあったことが立証されている。幡多地区及び南予地区の繩文遺跡からは、必ず大分県の国東半島沖にある姫島産の、ねずみ色半透明の黒曜石の石器か、その破片が出土するのである。これは、当時姫島産黒里曜石の原石を移入して、これで石鏃などをこちらで作ったからである。当時は、まだ丸木舟であったのであるが、帆をはるとか、あるいは潮流を利用するかして、九州といききをしていたのであろう。幡多地区の繩文遺跡からは、必ず姫島産黒曜石の破片が出土することから、姫島産黒曜石の破片が、1、2点でも出土すれば、その地は繩文時代の遺跡であると断定してもよいのである。中坂本・神有・正和遺跡などは、その例で、姫島産黒曜石の破片がよく出土しているので、よく調査をすれば、他の石器や土器が必ず発見できると思っている。


姫島産黒曜石の破片  宿毛貝塚出土
姫島産黒曜石の破片
宿毛貝塚出土