宿毛市史【考古編-繩文時代-繩文時代の生活】

縄文前期

この時期は、今から約5000年前の時代であるが、この期の遺跡は幡多地区では十和村広瀬・大月町竜ケ迫・土佐清水市松尾・それに宿毛市橋上遺跡ぐらいなもので、遺跡としての数は非常に少ない。
この期の土器は、底が平らになって地上に置くようになり、土器の頸部には土の帯をめぐらし、その帯をさかいに、上段は文様が特に念入りに作られて、刺突文や爪形文があり、下段も繩文や条痕文が一面にほどこされているというのが、その特徴である。
熊本県轟貝塚の、轟式土器はこの期のものであるが、轟B式土器が橋上遺跡から出土しており、轟式土器の系統の細隆線文土器が、大月町の竜ヶ迫ムクリ山遺跡から出土しており、九州文化の影響が認められる。
この期になると投げ槍は姿を消し、もっぱら弓矢が使われたようである。そのためか石鏃の出土が次第に多くなってくる。
この期の1つの特徴として繩文海進がある。この時代に海面が上昇し、現在の海面より約10メートル海が高くなったといわれている。この現象は、日本だけでなく、世界的なもので、気候の変化により海面か高くなったものと考えられ、この海進は繩文前期にはその極に達し、その後、次第に海退があり繩文晩期の終りごろには、ほぽ現在の海岸線に落付いたもようである。10メートルの海進があったとすれば、宿毛湾の海水は橋上付近まで、下田方面からの海水は、山奈・平田方面まで来ていたことになる。

橋上遺跡
宿毛市橋上町橋上の、居住地域全域に広がる、長さ700ノートル、幅150メートルに及ぶ大遺跡で、繩文前期から引き続いて現在に至る複合遺跡である。
この遺跡は、山本清義氏が発見したものでかなりの遺物が出土しているが、これはすべて表面採集である。まだ発掘をせずにこれだけの資料か出ているので、発掘をすればより貴重な資料か多く出土することであろう。
土器では前期・後期・晩期、それに弥生式土器なども出ており、石器では石斧・石鏃・姫島産黒曜石の破片・石剣などが出ているが、石剣は弥生時代のもので、石斧・石鏃の中にも弥生時代のものも出土している。弥生時代のものは弥生時代の項でのべるとして、ここでは繩文時代の出土品をあげておく。

土器
前期土器九州の轟貝塚より出土する轟B式の土器で、何条かの平行線状の細隆線文があり、その下には右下りの条痕文がある。
後期土器伊吹町式土器が一点出土している。
晩期土器中村Ⅱ式土器といわれる突帯に刻み目のある黒褐色の土器が何点か採集されている。この土器は中村貝塚の上層と、有岡ツグロ橋遺跡かち出たものと同じもので、繩文時代の終りごろの土器である。
以上のように前期・後期・晩期と出土し、中期は出土してないが、発掘をすれば中期をはじめ各期の種々の土器が発見できると思う。

石器
石鏃姫島産黒曜石で作った石鏃も出ているが、これは明らかに繩文時代のものである。その他チヤート製粘板岩製の石鏃も多く出ているが、この中には弥生時代のものも含まれているようである。
石斧打製のばち形石斧が10点あまりも採集されている。中村貝塚・有岡遺跡・入田遺跡出土のものと類似のもので、斧として使用したとみるよりは、石鍬として、土を掘り起こすのに使ったのではないかと思われるものである。多くは繩文晩期のものであろう。
石錘長さ4センチと6センチの石錘が2個発見されている。十和村広瀬・中村市大用・勝間などで発見された石錘と、大体同じ大きさ、同じ形のものである。
この石錘は、円形或は隋円形の小形の礫の両端をうちかいで作っているが、これは、網におもりをぶら下げる時、ひっかかりをこしらえて、網からおもりが落ちないようにしたものである。橋上遺跡の東側を流れる松田川で、繩文時代人が網を使って、あゆなどをとった時のおもりである。

橋上遺跡出土の土器 伊吹町式 繩文後期 橋上遺跡出土の土器 轟B式 繩文前期 橋上遺跡出土の土器 中村Ⅱ式 繩文晩期 橋上遺跡出土の石斧
橋上遺跡出土の土器
伊吹町式 繩文後期
橋上遺跡出土の土器
轟B式 繩文前期
橋上遺跡出土の土器
中村Ⅱ式 繩文晩期
橋上遺跡出土の石斧

橋上遺跡出土の姫島産黒曜石の石鏃 橋上遺跡出土の石鏃 橋上遺跡出土の石斧 橋上遺跡出土の石錘
橋上遺跡出土の姫島産黒曜石の石鏃 橋上遺跡出土の石鏃 橋上遺跡出土の石斧 橋上遺跡出土の石錘